2021年4月22日木曜日

ランボーよりジョンレノン ―John Lennon rather than Rambo


民主化は大切だが、命より大切なものはない。

 

大変僭越でおこがましいのですが、今回は、うちの家族の話をさせてもらえますでしょうか。ほんの五分ほどお付き合いください。

 

私の父は、昭和3年(1928年)12月生まれで、昭和20年(1945年)815日の終戦時には16歳だったため、出征の義務のなかった世代だった。

昔は父の郷里の村にも映画館があり、戦時中は、メインの映画を上映する前に、大本営発表の短いニュース映画が流れていたそうである。

そこでは、軍艦マーチのBGMに乗って名だたる軍艦や戦闘機が映し出され、海外各地での戦果が小気味よく大々的に報じられていて、父などは、メインの映画以上に、そっちのニュース映画を楽しみにし、興奮していたそうである。

やがて、血の気が多めの父は、自らの手で敵機敵艦を撃墜撃沈したくなってきて、しだいに居ても立ってもいられなくなってきた。

そして、徴兵を待ちきれなくなった父は、とうとう「わしは志願して戦争に行く」と言いだし、誰彼構わず触れ回っていった。

それに対する周りの反応は、「えらいのう」「志願するんじゃとなあ」と賛辞の嵐で、血の気の多さに加えて、乗せられやすく乗りやすい父は、ためらうことなく志願兵の受験へと突き進んでいった。

絵に描いたような、いわゆる軍国少年の誕生で、大本営のトラップに見事にはまったわけだ。

とにかく最前線で撃ちたい父の第一志望は航空兵だったが、それには受からず、本人にとっては不本意ながら海軍の少年電信兵に合格し、念願の出征を果たした。

 

生前の父が、たまにこのような戦時中の話をするのは、たいてい酒が入った時だったが、一度だけ、ポツンと漏らした忘れられない一言がある。

「引くに引けんなってのう」

大本営に感化された父のアナウンス効果は凄まじく、よく知らぬ大人からも声をかけられ、「あんたじゃろ、志願するんは」と激励されていたそうである。

先の一言を漏らした時、父は笑っていたが、熱血軍国少年でも、その心の片隅には、救いを求めたい感情も、ちょっぴりは潜んでいたのかもしれない。

誰も「やめとけ」などとは口が裂けても言えない空気が、日本中を覆っていたのだろう。

 

自分が何かと刺し違える覚悟を決めて突撃して憤死するのは自分の勝手。

けれども、よその子の出征を拍手と万歳で見送るような大人にはなりたくない。

 

ちなみに父は三男で、私の叔父にあたる次男は、地域の相撲大会で優勝するほどのガタイと腕っぷしの持ち主だったが、鉄工職人として戦闘機や軍艦の製造に従事していたため徴兵はされず、戦後、鉄工所の社長となった。

長男は、年齢による徴兵で陸軍の歩兵となり、ビルマに赴いてインパール作戦に参加した。

生きていれば私の叔父になるところだったが、遺灰すら帰ってこなかったそうだ。

母にも兄が一人いて、陸軍航空隊の曹長にまでなったが、ニューギニアでマラリアに罹り、帰国後、病床で戦死した。

 

どの国の政府も殺傷を止めることができないその代償を、若者の命で払わせてはいけない。もう、たくさんだ。

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