Jun. ’23 |
私の記憶している限り、ミャンマーの内陸に大型サイクロンが食い込んできたのは、2008年5月3日にエヤワディー管区からヤンゴン管区を直撃して数十万人規模の犠牲者を出したサイクロン・ナルギス以来だ。
ナルギスに比べると、モカはかなり北のほうから進入したため、ヤンゴンでは風の被害はほとんどなかったが、土砂降りは続いたようである。
日本の天気予報でよく見る台風の衛星画像では、台風の目を中心に真っ白い雨雲が巨大な円となって膨らんでいるのが分かる。
雨雲は次々に誕生し、反時計回りの渦となって台風の目に向かって流れているが、特に台風の進路の右側では風雨の勢いが強くて範囲も広がり、台風の中心が沖縄付近にある時点でも、遠く離れた本州で大雨が降り出したりすることがある。
インド洋の台風であるサイクロンがベンガル湾南方に発生した場合、ほとんどが北のバングラデシュのほうに向かって進み、ミャンマーでは、たまに西のラカイン州をかすめるぐらいで、まともに上陸することは稀だ。
けれども、ベンガル湾をゆっくり北上する進路の右側(東側)に位置するのが、まさにミャンマーで、雨雲はかかり続け、雨の影響は全国に及んで長期間の土砂降りに見舞われる、ということがたびたび起こる。
モカが通り過ぎた後の5月後半と言えば、もう、いつ雨季に突入してもおかしくない時期ではあるが、長雨の後は再び晴天となり、ヤンゴンでは気温35度を超える日々が続き、人々は暑季の延長だと判断していた。
日本の気象庁の梅雨入り宣言のようにミャンマーの気象水象局が雨季の突入を宣言するという話は聞いたことないが、それなりの状況が整わなければ、人々は雨季に入ったとは感じないようである。
私は、ヤンゴンには三つの雨が降ると以前説明したが、モンダインと呼ばれるサイクロンの単発の降雨では、どんなに大量でも数日間降り続いても、それだけでは雨季とは判断しない。
http://onishingo.blogspot.com/2018/10/5-exploring-myanmar-nature-part-5.html
太陽は、北回帰線と南回帰線との間を一年かけて往復するが(動いているのは地球のほうだが)、その過程で、ミャンマーの国土の大部分では、日本で言う春分の日から夏至の間と、夏至から秋分の日の間に、太陽が最も接近する。天頂に来るのだ。
特に夏至前の最接近の頃によく降るのがスコール性の雨で、日本の夕立に似ている。なので、夕立の激烈版のようなゲリラ豪雨を「まるで熱帯のようだ」と例えるのは、まさにその通りなのだが、ドバっと降ってカラッと止む豪雨が数日続いたとしても、ミャンマーでは、まだ雨季の到来とは言い難い。
Jun. ’23 |
南西の洋上からやって来るモンスーン本体が到達すると、雨が降っていなくとも空はどんよりとしたままで、猛烈に降ったりしょぼしょぼ降ったりを繰り返す。
こうして、時間帯に関係なく雨の波状攻撃が続くようになると、やっと、雨季だなーとつくづく感じるのである。
雨漏りが止まらない築8年のアパート。壁と天井の梁の境目から漏れている Rain water is continuously leaking from the gap between a wall and a beam at a 8 years old apartment. Jul. ’23 |
ちなみに、山地に囲まれたミャンマー中央部の平地ではモンスーンの影響が弱く、まさに熱帯雨林気候から乾期の分を引いたような雨量になる。サバナ気候というやつだ。
結局、雨の波状攻撃が続くようになってきたのは6月に入ってからのことで、みんなが納得する雨季の始まりは、今年(2023年)は、かなり遅かった。
年によって7月か8月に来る特別な満月の日(2023年は8月1日)を境に、お坊さんは托鉢をやめ、僧院に籠もって修業をする期間となり、それに合わせるように、庶民も結婚や引っ越しなどはせず、旅行もなるべく控えましょうという習慣があり、雨季が終わった頃の特別な満月の日まで続く。
元々は仏教の世界から始まったことだが、実際、大雨の中の移動や外での作業には危険が多いので、雨季はなるべくひとところに留まらせようとするその教えは理にかなっている。
この雨の季節にわざわざ、私は水で溢れ返る地方を目指した。この三年以上会えていない者たちの消息を知りたくて、我慢の限界が来たのである。
エヤワディーデルタに迫る雨雲 A rain cloud is approaching Ayeyarwady Delta. Jun. ’23 |
同調しなかった人もいたのは分かっているが、大半の人たちのがんばりで、集団としては人類は難局を乗り越え、今では世界は再び動き出している。一致団結に同調しなかった人が「ほら、自然と治まったじゃないか」と今頃言うのは的外れ、お門違いです。
コロナによる断絶は我慢できる。けれども、追い打ちをかけるように勃発したクーデターによる断絶は余計。不可避の自然現象ではなく人為なのだから。
当初は、コロナの流れのままで、本質が分からない故の自若にも危険故の自粛にも我慢してきたが、いつまで経っても、軍支持だから反軍だから会ってはいけないとか行ってはいけないとか、そういう状況にだんだん違和感を覚え、うんざりしてきた。
あいつは◯◯側だだの、あいつは寝返っただの…やかましいわい。かつての友人たちが今どこにいようと、友だちは友だち。その人間性を判断するのは私だ。
国家の状態がどうあろうと、人がいる限り止めてはいけない公共のサービスはあるし、守らなければならないものもある。
政治的には何も解決していないから学問が停滞しても道義的な活動が停止したままでも致し方ないんだなんて、そんな同調圧力が、いかにナンセンスなことか。
今は、ミャンマーに行くこと自体が軍を支持することになるから行くなと言う意見もある。けれども私は、そこまでおとなしくはしていられない。
実際にこの目で確かめなければ、事の本質は何も見えてこない。事実、メディアの報道や人伝ての情報が、真実とどれほどのズレがあるのか、私は滞在を通して実感しているところである。
生涯ミャンマーの国と関わる者は、どんな状況であろうとも、まずは現行の法律は遵守しなければならない。その上で、今は、行けるところから行ってできることからやるしかない。
民間人による森作りのお手伝いなどは昨年から始めているが、自身のライフワークである野生生物を訪ねる旅も、まだまだ制限はあるものの再開することにしたのだった。
まず向かったのは、水辺の生態系の頂点に立つ怪物級の生き物が住むマングローブ地帯。暗くなる前に最寄りの町まで戻ってくることを条件に、一般のツーリストとして日帰り旅行のみ認められるとのことだった。
目的地の自然保護区は、もう管理する者もおらずマングローブ林はズタズタに伐採されているとヤンゴンでは聞いていたのだが、果たして真相やいかに。
数えてみると、私はこの地を二十回訪ねており、サイクロン・ナルギスによって高木層を失ったボロボロの森の惨状を目の当たりにし、そこから徐々に再生してゆく過程を見届け、前年にはあったはずの大きな木がただの切り株に変貌しているような事例も見てきて、まさにその張本人である違法伐採者に遭遇し、その拘束に立ち会ったこともある。昨日今日の発信者からの情報を鵜呑みにする訳にはいかない。
久しぶりの漁港の情景にも航路沿いの風景にも懐かしさが込み上げてくる。携帯電話の中継タワーも、大川をまたいで頭上を渡る道路橋も、川岸に立つ精米工場も昔のまま。
あたりの陸地には大小の川が迷路のように巡っていて、寸断された陸地は、いわゆる中洲になっているが、雨季でも大潮の満潮時でも水没しない安定した中洲は、もはや島として名前も付けられている。
校庭ほどの島から、複数の村を擁するような広大な島まで様々だが、上流から運ばれた土砂が堆積したできた土地なので、小高い丘もなく、一様に平らである。
港を出で2時間近く、見覚えのある平らに長い島影が見えてきた。目的地の島に違いない。
初めてこの地を訪ねたのは30年も前のことだが、そんなのは、巨大な大河の一生の中では昨日のようなもので、中洲と言えども配置は当時から変わっていないのだ。目まぐるしく変わるのは島の土台ではなく表面、地上のほう。
軽快にボートが進むにつれ、モノクロだった島影がだんだん緑色を帯びてきて、横一線だった島の輪郭がギザギザに見えてきた。
とうとう島の北端に到達、3年半ぶりの再訪だ。時間が許す限り、外縁から島の内部に続く水路まで、徹底的にトレースして観察するつもりだ。眼力モニタリングである。
ナルギス以来の惨状に対面する覚悟はしていた私だが、その目に映った久しぶりのマングローブ林の光景は…一言で言うと「意外」。最後に訪れた時に比べて、それほど変わっていない印象である。
マヤプシギなどが水際を覆うマングローブ地帯の水路 A natural canal edged with Mangrove trees such as Sonneratia alba, etc. Jun. ’23 |
簡単には到達できない内陸部の様子を確認していないので軽はずみには断定できないが、少なくとも見通せる範囲では、大規模な伐採があったとは感じなかった。
以前から保護区内に点在していた複数の監視キャップは今もあり、委嘱されたローカル職員一家が常駐し、森林局の保護官が巡回しており、違法者の侵入を抑止する体制は維持されていた。
私が保護区に入ったのは、最寄りの町への到着を関係機関に知らせた翌日のことなので、そんな大がかりな体制が一夜にして取り繕えるわけがなく、間違いなく日常の情景だった。
安否が気になっていたターゲットの情報が監視キャンプの一つから届いたのは、日帰り旅二日目のことだった。午前5時半には宿を出て座席付き自転車タクシー(サイカー)を拾い、波止場の麺屋で朝食を済ませ、6時には出航した。片道2時間強の移動時間がもどかしい。
情報をくれたキャンプが見えてきた。エンジン音を聞いたローカル職員のおやっさんが手作りの木製桟橋の先まで出てきて、川の上手を指差して声を上げた。「まだいる。あっちあっち」。
接岸は後回し。そのままゆっくりと舵を切り、指差す方角を目指す…
いた!流木か溶岩のような枕大の塊が、茶色く濁った水に浮いている。
これぞ、3年半越しに会いたかったターゲット、マングローブの主、イリエワニだ。
イリエワニ Salt-water Crocodile(Crocodylus porosus), Jun. ’23 |
どのような行動に出るか、我々に対する反応はどうか、しばらく観察と撮影を続けてみる。
頭のサイズからの推測で、全長は3メートル前後。世界最大になるイリエワニとしては若いほうだが、既に性成熟はしているはず。積極的に繁殖に参加してもいいものの、数分単位で潜ったり浮上したりを音もなく繰り返し、大きく移動しそうな気配はない。
潮がやや引いている時間帯で、ワニの目の前には泥の岸辺が顔を出している。過去にも何度か上陸を確認したポイントだ。ワニが上陸する目的の一つは、日光を浴びて体温を上げることだが、時期が時期だけに、日光どころか降ったり止んだりを繰り返す空模様である。
曲がりなりにも哺乳類に属する私だが、彼らとの長い付き合いの中で、かなり爬虫類的体内時計にも精神状態にもチェンジできるようになっている…つもりだった。
けれども、潜ったり浮いたりだけの繰り返しを1時間以上も見せつけられては、さすがの爬虫類モード中の私も、とうとう根負けしてしまった。
久しぶりの再会はうれしいが、16時前には帰路に着かなければならない。他の個体にも会うべく静かにその場を離れ、入り組んだ水路の奥地を目指して探索を続けた。
結局、数日間の日帰り旅で見られたワニは、この一頭のみだった。
この地では、これまで何百頭のワニを見てきたが、その中に、今回会った一頭もいたかどうかは分からない。けれども、とにかくそいつは生きていた。生きていてくれた。
ここへ来るまでには、絶望的な噂も耳にしていた。無法地帯となった保護区には密猟者が侵入してワニ狩りが横行しており、河口沖の洋上にはワニを買う外国船が停泊している、という内容だったのだ。
クーデター直後の混乱の中なら、それに近いような事例があったと言われても、一概に疑うことはできないだろう。
けれども、近くにいることを認知しているはずの我々とボートに対するあのワニの反応からして、私はワニ狩りが横行したとまでは見ていない。
多くの個体が見られなかった理由としては、前述したように陸に上がって甲羅干しをしたいような天候ではなかったこと、繁殖期なので、メスの成体は水路の深部に入り込んで巣作りや子守りを始めていること、オスの成体は交尾相手を探しながら行動圏を広げるていることなどがあり、個体が拡散する雨季は、そもそもワニの姿は見えづらいのだ。
夜だと、昼間隠れている若い個体が大勢水辺に現れるので、正しい生息密度を測るには好都合だが、全国的に夜間外出禁止令が施行されている現状では、日暮れの後にも活動して監視キャンプや周辺の集落に泊まる許可は、しばらく出そうもない。
保護官によると、以前からなじみだった5メートルを超える大ワニたちも無事で、個体を識別して近況を把握していた。ノーピューとパイテッジョーが殺し合いのけんかをしたとか。
7月後半からは、保護官による巣の分布調査も始まる。出現頻度の上がる乾期には私も再び訪れて、たとえ昼間だけの観察になるとしても、生息状況の実態に迫りたい。飽くまで民間人の訪問として。
Jun. ’23 |
特に雨季には、交尾の準備ができたオスは保護区の外にも泳ぎ出て、乾期に当たる涼季から暑季には魚を中心に捕食していたのが、より多くの栄養が摂れる大型動物を積極的に襲うようになり、人や家畜もメニューに加わってしまう。
以前から私は、せめてワニ被害回避マニュアルだけでも早急に作って地域住民に配布してはどうかと提案しているのだが、クーデター以降、人材と財源が不足する中、実現の可能性はますます遠のきそうだ。
そして、犠牲者が出てしまうと、その度に人々のワニへの憎悪は増してゆくだろう。
政治の混乱は、人の生存にも野生生物の生存にも確実に影響する。(つづく)
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