2021年8月16日月曜日

第三次世界大戦 -敵は新型コロナウィルス-、その10. コロナと異常気象、綱渡りのオリンピック ―World War Ⅲ, against COVID-19, part 10. Olympic on a tightrope with COVID-19 & abnormal weather

オリンピックが終わり、今度は、我々一般市民のコロナとの闘いが正念場を迎えている。

 

科学的な理論に基づいて制御した行動でどれぐらい日常生活が維持できるかの指標として山梨モデルには注目していたが、その山梨県でさえ感染者数が増えているのを見て、とうとう別の次元に突入したのかと感じずにはいられなくなった。

やはり、デルタ株は別物だと思ったほうがいい。アジア人が持っているかもと言われていた謎のファクターXも、デルタ以降の株には効かないのかも。

 

まだ観ておられなければネタバレ注意だが、映画「シン・ゴジラ」で言えば、陸に上がったアナゴの化け物のようなゴジラ直前の形態(アナゴジラ?)が新型コロナの従来株だとすれば、デルタ株になって、ここからやっと本ゴジラの始まり、ということかもしれない。今がシンの第1波なのかも。

昭和人間としては、あれをゴジラ映画とは認めていないが。

 

現在の爆発状態について、首相は、「デルタ株の感染力は従来の1.5倍と聞いてましたが、それ以上だったということではないでしょうか」と、他人事のように言ってたが、私は、いや、現状は予想通り、むしろ、まだ数字以下じゃないの、と思っている。

 

やはりこの、1.◯◯倍という伝え方が問題で、例えば1.5倍なら、10万人が15万人にということではなくて、1.5倍での指数関数的(ねずみ算式)増え方というものを理解しなければならない。

http://onishingo.blogspot.com/2021/07/8-world-war-against-covid-19-part-8.html

 

今はまさに、短期間での変異を繰り返すウィルスと、ワクチンや治療薬を改良していく人類とのせめぎ合いの真っ只中で、劣勢になったほうが徐々に淘汰されていくのだろう。

もはや日本の医術に勝算はなさそうで、人類の存亡は欧米の製薬会社の健闘にかかっている。日本はそれを待って買うという寸法。

 

ウィルス変異vsワクチン改良の優劣がほぼほぼ決するまでは、むやみに新型コロナの格下げを急ぐのはどうかと思う。

新型コロナを、どうしても「ただの風邪」としたい人たちが今でもいるようだが、国語の分類上は風邪の類であることなどは分かりきっている。問題なのは、“ただの”と言える代物かどうかということ。

http://onishingo.blogspot.com/2020/09/3-world-war-against-covid-19-part-3.html

 

例えば、ただの風邪論者が引き合いに出す風邪の代表格、インフルエンザによる死者は、最近では最も多かった2018年に3,325人亡くなられている。

https://www.lab.toho-u.ac.jp/nurs/socio_epidemiology/blog/dqmvu90000000d2i.html

それに対し、新型コロナは、2020213日に国内初の死者が出て以来、2020年は3,414人亡くなられており、流行した年のインフルエンザ被害とほぼ同じである。

https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_15828.html

ただの風邪論者からは、それ見たことかと言われそうだが、この間、インフルエンザの死者数がどうだったか?

2020年の統計はまだ見つからないのだが、もし半減していたとしたら、全国民的なマスクの励行や三密回避などの感染対策が不十分だった2018年の生活様式だったなら、新型コロナは倍増していた、三分の一だったなら三倍になっていた、と逆算するのが合理的だろう。

感染力や毒性の強弱ではなくウィルス干渉により、新型コロナが蔓延していたからインフルエンザの入り込む余地がなかったのだという説も有力だが、それはそれで怖く、やはり“ただ物”ではない。

実際、2021年は、ワクチンと新しい治療薬による武装が始まっているにもかかわらず、死者数は減るどころか、まだ4ヶ月も残した現時点で既に約12,000人も亡くなられている。

優劣の振り子で言えば、ウィルスの変異が優勢に立ち医療が劣勢に置かれているわけだ、少なくとも日本においては。

なのに、格下げなどして大丈夫なの?

 

それでもまだ、死者が一億人を超えてたと言われる最も被害が大きかったインフルエンザ、通称スペイン風邪を引き合いに出し、それに比べれば新型コロナなど、ただの風邪もいいとこだ、という意見もおありかもしれないが、それは、現時点から過去の一点だけを捉えるような見方であって、歴史は、点ではなく線で総括すべきだろう。

インフルエンザが人類にとってただの風邪になるまでに何年かかったことか。その変遷を、この一、二年で求めるには無理がある。

スペイン風邪の時代は、インフルエンザウィルスに対抗できない人々は淘汰され、克服できた人たちだけの遺伝子が残って現代人のマジョリティーに至っているが、現在は、基礎疾患のある人も高齢者も救える命は全部救うという時代。

つまり、適者生存から弱者共存になった今日では、おそらく、新型コロナが人類にとって「ただの風邪」になるには、今の子どものそのまた子どもの世代ぐらいまで待たされるかもしれない。

そこに至るまでの人類は、自然淘汰にあらがうのであれば、製薬会社の健闘を祈り医療に守ってもらうしかない。

 

同一種でありながら進化と言ってもいいような大きな変異に対抗するには、同じことを何度繰り返しても光明は見えてこないだろう。

ワクチンで先を行っているイギリスなどでは、あえてノーマスクで三密オーケーのライブイベントを社会実験としてやったりしているが、日本だとすぐに、それでもし感染者が増えたら誰が責任を取るのかとなって、たぶん、どの政治家も腹をくくれず、とてもじゃないけど実施できないだろう。

そして、相変わらず、三密回避、飲食店云々という当たり障りのないお願いを繰り返す。

できることは何か、できないことは何か、ウィルスの実態を究明しようという気概が感じられず、欧米からの報告待ちを決め込んでいるかのようだ。

格下げするなら、もっと新型コロナの実態を解明して制御できるほどに医療体制を整えてからにしてもらえませんでしょうか。医療が間に合わないから格下げするというのは、本末転倒death!

 

前便、前々便に貼り付けた私の案は、科学的政治経済的にどこまで実現可能かは要検証だが、いつまで経っても壁を越えようとしないグズグズの政治家に、イライラが募って挑発したくって抑えきれない一市民からの一喝だと受け取ってもらいたい。

 

コロナ禍のオリンピックに関しては、以前も今も選手には何の罪もないと思っているので、「お疲れ様でした。人類の能力のすごさを見せてくれて、ありがとう」とお伝えし、ウィルス陽性となって出場できなかった選手に対しては、「本当にお気の毒でした」としか、かける言葉が見つからない。

選手だけではない。すばらしい試合の数々に感動をもらった人々が大勢いる一方で、本人や家族が感染してオリンピック観戦どころではなかった、という人たちも少なからずいたことは間違いない。お医者さんや看護師さんももちろん。

総じて、オリンピックをやるのはこの時期でよかったのか?という疑問は残ったままである。

 

オリンピックについても新型コロナと同じで、政府はお願いばかりに終始していた。

例えば、ロード競技の会場周辺の住民に対しては、沿道での声援はなるべく控えてくださいと。

せっかく我が町をマラソンコースが横切っているのに、せがむ我が子を説得して自宅でテレビ観戦させた人も、一生に一度のレースを直に見せようと沿道に連れて行ってウィルスに感染させてしまった人も、どっちにしても一生涯後悔することだろう。

 

なんですべてを国民に決めさせるかなあ。とにかく政府は国民に委ねすぎ。

政府から国民、親から子、教師から生徒と、上から下への「自分で判断しなさい、信じてるから」という姿勢は、果たして“自主性の尊重”というような高貴なものなのだろうか、導く立場にある責任を放棄した“放任”ではないのか。

上から決めてあげることも、場合によっては一つの優しさなのかもしれませんよ。

 

今回のオリンピックは、本当に綱渡りだったと思う。

しょっぱなからして、もし開会式当日が雨だったら、どうなっていたのだろう。

ゲリラ豪雨、台風の直撃、秋雨前線の停滞、どれにぶち当たってもおかしくなかった。ほんのタッチの差、ニアミスで事なきを得たに過ぎない。

雨天決行が前提の競技は、元々欧米のシトシト雨ぐらいが基準だったはずで、昨今頻発する豪雨(特にアジアの)は想定してなかったと思う。

順延は織り込み済みの高校野球でも、今、居座っている秋雨前線のような長雨になると、どこまで持ちこたえられることやら。

 

豪雨の中では、どんな高性能のマイクでも人の声だけを拾うことなどできないだろうし、トップで入場するギリシャ選手団だと、最後尾の日本が入場するまで二時間も雨の中で突っ立たされることになる。さらに、紋切型の演説を数十分間も聞かせ、滝のような水カーテン越しに数時間もパフォーマンスを鑑賞させるつもりだったのだろうか。ハードロックフェスじゃあるまいし。

 

確か、最初のコンペで選ばれた新国立競技場のデザインは、可動式の屋根付きではなかっただろうか。

この大気候変動の時代に入ってしまった今からは、順延を想定しない巨大イベントの会場としては、屋根付きの場を準備するほうが無難だ。アジアではなおさら。

そもそも、予算オーバーを理由にコンペの結果を反故にするというのはどうなのか。この限度額以内でデザインの改変をお願いするというなら分かるが、不正が発覚したわけでもないのに受賞そのものを取り消すなんて、クリエーターとしてはたまったもんじゃない、無茶苦茶だ。

 

今回、荒天が吉と出たのは、サーフィンぐらいのものだった。

世界のトップサーファーたちにトップレベルの技を競っていただくには、人を包み込む波のチューブもできないような夏の日本の海岸では申し訳ないと危惧していたが、台風接近のお陰でそれなりの波が立ち、大技を出すこともできていた。濁り水だけは気の毒だったが。

リスクの中でも、台風はまだ、かなり高い精度で被害を予測できるほうだ。

 

気温のほうでも、都心が今季初の猛暑日に見舞われたのは、閉会式の二日後のことだった。

もう、いくら夏季オリンピックと銘打ってても、バカ正直に開催地の真夏にする必要はない。

日本なら、やはり前回と同じ秋がいいだろうし、ミャンマーやタイやインドなどの熱帯モンスーン帯なら、45月の酷暑は避けなければならない。

 

新型コロナと異常気象に翻弄される時代は、しばらく続くだろう。

もはや新型コロナは身近に存在するという証拠として、著名人の感染のニュースを聞く頻度が増えてきた。

ゴルフの松山選手やバドミントンの桃田選手のように、大きな大会で優勝すると、いろんな場所に呼ばれることとなり、どうしても人と接する機会が増え、本人がいくら気を付けてても感染の機会は激増するだろう。

お二人とも出場には間に合い、感染を言い訳にしなかったのは、さすがのスポーツマンシップだったが、プレーに影響がなかったとは言い切れないだろう。

 

感染された芸能人の方々も、「無症状ってやつで体調に問題はない」と強調しがちだが、このコロナに関しては、無理に健康をアピールするのは、どうかと思う。

あおるのはよくないが、もし、後遺症が残っているのなら、今はまだ貴重な体験者として、その症状や辛さを正直に語ってくれたほうが、インフルエンサーとしての大きな社会貢献になるはずだ。

後遺症に苦しむ方々が大勢いるにもかかわらず、完全復帰できたケースのほうがより注目されるようになると、ほら、こんなにふつうになってるじゃないか、やっぱりワクチンも三密回避も不要なんだ、みたいな誤解に繋がり、ひいては医療体制の逼迫に繋がりかねない。

あっ、そうだ!著名人絡みということでは、今回のオリンピックの関連で最も衝撃だった出来事を忘れるわけにはいかない。語らないわけにはいかない。

それは、今回と言うより、生まれてこのかた見た中で、三本の指に入るであろう不愉快で気持ち悪いシーンだった。

名古屋市長の非常識で無礼極まりない暴挙、メダルかじりだ。

昔、よく時代劇で小判をかじるシーンを見たが、純金なら噛んだぐらいでは変形しないということで、小判や金貨が本物か偽物かを判断する民間の方法として、以前から実際にあったはずだ。

つまり、(純金ではないものの)紛れもなく本物の金メダルを取ったんだよと、かじってもいいほど、もう自分のものになったんだよという、本人だけに許されたほほえましくておちゃめなお決まりのポーズということで、メダルかじりのパフォーマンスは広まっていったと思う。

それ以外では、そもそも食べ物以外で口に入れてもいいものといえば、歯ブラシと、人によっては吹奏楽器やマウスピースや体温計と幼少期のおしゃぶりぐらいのものだ。

けれどもこの件は、このご時世云々とか感染のリスク云々とか、そういう次元の話はしなくていい。それ以前の問題だ。

いくら多様性の時代とか個性の尊重とか言われても、どうしても価値観を共有できない者はおり、無理に迎合するつもりもない。

かの市長は、和やかな雰囲気だったからとか言い訳をしていたが、そんなことを言う時点で、私とは価値観の基準が違う。

他人の持ち物は、触るにしてもひと声かけて許しを得るべき。それが私の中での基準だ。

世の中には、例えば他人の手紙や葉書やメールを無断で見たり、人から借りた物を返さずに自分の物にしたりするような、私とは相容れない価値観の持ち主が歴然といるが、あの市長が首にかけられたメダルをすっと口に運んだシーンを見て、この人間の思考や価値観も絶対に相容れないと確信した。

被害を受けた後藤選手こそは、常識も礼節も持ち空気も読める最高の大人だ。

それに対して、かの市長は非常識さでは最低ランクの人間。さもなければ、認知機能障害をチェックしたほうがいい。

ぜひ新しいメダルに交換してあげてほしい。それでも不幸中の幸いにしかならないし、こんなことで話題になるのは、後藤選手にとっては不本意だっただろうが。

さて、いよいよパラリンピックの開幕予定日が間近に迫っている。

そして日本は、新型コロナと異常気象の猛威の真っ只中にある。

絶対にやらなければならないものなんだという固定観念に意固地になることなく、何が一番いい選択なのか、ニュートラルな視点で冷静に判断してほしい。

千変万化する敵には、臨機応変に立ち向かわなければならないのだから。

間違っても、同じく四文字熟語である優柔不断にはなりませんように。

 

新型コロナウィルスで亡くなられたすべての皆様のご冥福をお祈りいたします。

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