2020年9月25日金曜日

第三次世界大戦 –敵は新型コロナウィルス–、その3. 新型コロナはただの風邪か? ―World War Ⅲ, against COVID-19, part 3. COVID-19 is just a common cold?

本題の過去二編は、コチラコチラ

日本では感染第二波が収束に向かっているが、日本の感染対策は、「市中の感染率」という基礎資料の収集を軽んじて始まってしまったため、他国(特に先進国)の統計に比べて信頼性は低く、単純に比較できるようなものではないかもしれない。

第一波の頃は検査数が少なかったから感染者数も少なく見えてたのであって、決して第二波が著しく大きかったわけではない、などと、あと出しの屁理屈で煙に巻かれた感はあるが、グラフの波形そのものは、ある程度実態を反映していると思っていいだろう。

そういう事情も踏まえつつ各国の推移を見比べてみる。

まず、ミャンマーは、ずっと低い水準で推移していたのだが、8月下旬から急増が始まった。

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西の国境では、ベンガル民族(自称ロヒンギャ)の方々の往来もあり、インド、バングラデシュの影響を遮断するのは難しいのではないかと心配していたが、やはり、隣接するラカイン州から感染の増加が始まり、現在では、ヤンゴンの一日あたりの感染者数は、東京を上回る爆発的な勢いとなっている。

ミャンマーでは、国際線定期便の再開もせず、4、5月の夏休みが終わった6月以降も、ごく短期の試験的な開校を除いて休校も継続中で、ずっと感染を押さえ込んでいたのだが、長期間抑制を続けていると、いずれ反動が来てしまう、ということなのだろうか。

ミャンマー政府は強権的に通達は出すものの、現場での施行状況はそれほどガチガチではなく、結構緩かったりもするので、あまりにも長期間すぎると、取り締まる側も市民の側も緊張感が持続せずに徐々にマンネリになっていたのかもしれない。

第一波と第二波の山がはっきりと現れ、しかも、二波のほうが一波の山よりも高いという典型的なパターンになっているのが日本とオーストラリアで、夏場が続いていた北半球では、恥ずかしながら日本だけだったかもしれない。

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現在、スペイン、フランス、イギリスなどが、このパターンに入りつつある。

批判の矛先を逸らすかのように、第二波が大変なことになっていると大げさに報道されていた韓国は、実際は、一波よりも小さな山で押さえられている。しかも、韓国の場合、最初から検査を徹底して基礎資料を集めているので、統計は日本のものよりもはるかに信頼できる。

そして、あそこよりはマシ、とばかりに、よく引き合いに出される国が、アメリカ、インド、ブラジルなどで、目立った収束が一度もないまま高水準で推移しているか爆増の一途かである。

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そして、アジアの一部やニュージーランドなど、最初の大きな爆発を押さえ込んだ後は、ずっと低水準での横ばいとなっている国がある。

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特にアジアのそうした国に対しては、統計を操作しているんじゃないの?みたいな先入観で見る日本人は多いかもだが、あちらからすれば、一斉検査もしないあんたらにだけは言われとうないわい、となるのかも。

実際、激増の真っただ中にあったバンコクと東京で数日間ずつ過ごした私自身の体験からしても、これなら押さえ込むかもしれないという実感をバンコクでは持ったし、これは大変なことになるかもしれないという実感を東京では持った。

低水準を維持しながら感染前のような経済活動が再開できている国々もあるが、共通しているのは、いったん強烈なロックダウンを施して全国の新規感染者数ゼロという成功体験を一度味わっている、ということではなかろうか。

日本は、もう一息のところまで来た段階で、その成功体験に至らないまま、ジワーッと再開してしまった。

急がば回れ、ということわざを持つ国なのに、その日本人が臥薪嘗胆しきれなかった。

五月雨式に給付金を配るのではなく、はっきりと「少ないですが、これは一人一ヶ月分の食費です」と言って、可能な限り全国民に同時に支給し、その後に、開始日と終了日を宣言した上で全国一斉ロックダウンをするぐらいの思い切った同時代体験をしてもよかったのではないかと、私は思っている。医療関係者や、インフラ・ライフラインや治安などを維持する最低限の職種の人たちだけに動いていただく、ということで。

もしそこで、全国新規感染者ゼロという成功体験を一日でも成し遂げられてたなら、10万円にも、はるかに意義もありがたみも感じられてたかもしれない。

結局、自粛により危機に陥る方々を救済する政府の体力も社会の互助のしくみも、国民の知恵が集結できず形にできないまま、なし崩し的に経済活動を再開せざるを得なかった。

いずれにしても、現在、第二波が収束に向かっているのは確かなようだ。

こういう状況になると必ず聞こえてくるのが、「さんざん脅しておいて、結局何も起こらなかったじゃないか」という声。なんなら、この間の損失をどうしてくれるんだ、ぐらいの勢いで。

実際、新型コロナウィルスは、ある程度まで増加したら勝手に収束に向かっていくもの、みたいな、見切ったかのような思い込みをしてしまいそうだ。

けれども、それは違う、と、まずは言っておこう。

何も起こらなかったとアピールしている当人たちは何もしなかったかもしれないが、このままでは大変なことになるとの医師たちの警告を聞いて、三密回避、マスクの着用、ソーシャルディスタンスの確保などに一層努めた人たちがかなりいたはずで、そのお陰で感染爆発を回避できた、というのが実態のはずだ。

何も起こらなかったのは、自然の成り行きではなく、そうするべくしてそうなったのだ。

「何もしなくても何も起こらなかった」とは、周りの人たちに救われているという因果関係に気づかない、よっぽどおめでたい人たちのセリフのように聞こえる。

ウィルスの毒性が弱くなって感染力は高まった、というのは、この短期間にもありうることかもしれない。

ウィルス自身がそういう意図を持っているということではなくて、適者生存という自然の摂理に従って、いろいろな変異の中から生存に有利なそのような性質を持つウィルスが残存していく、ということだ。

SARSが、理由の分からぬまま自然に鎮火したように、未知のウィルスに何が起こるのかは計り知れないが、何もしなくても自然に落ち着くもんだよ、と自信を持って言える人は、いないはずだ。

それを言いたいのなら、その根拠は示すべきで、根拠がない限りは、やはり、ウィルスとは、何もしなければネズミ算式に増え続けるもの、と心得ておくべき。

そして、自粛の要請が長く続くにつれて大きくなってくるのが、「新型コロナはただの風邪」という声。

かなり早い段階から、そう言っていたインフルエンサーは結構いて、医師たちの警告に対しては、世間の不安を煽るだけ、みたいに切り捨てていた。

私は前便の書き込みで、国民の気持ちを一気に締めた功労者の代表として、志村けんさんと岡江久美子さんのお名前を挙げた。

逆に、「ただの風邪」とのインフルエンサーの言葉に安心し、油断して新型コロナをもらってしてしまった人や、他人に感染させてしまった人も、少なからずいるだろう。

そういうケースは、統計としては実数がまとまらず因果関係が証明できないから、かのインフルエンサーたちは安寧としていられるわけだ。

もし私が感染してしまったなら、「ただの風邪なんでしょ、だったらいい風邪薬を教えてくださいな」とでも、かのインフルエンサーさんたちに尋ねてみようか。

意地悪言うのはやめて一声かけてあげるとしたら、「日本が訴訟大国じゃなくてよかったね」ぐらいだろうか。

そもそも、医学的な分類では、新型コロナウィルスは、病気の俗称で言うところの「風邪」の範疇に含まれることは間違いない。

けど、それはあくまで分類上の話であって、そんなことは、わざわざ言ってくれなくても、たいていの大人は理解している。

では、「ただの風邪」と言い切っていいものかどうか。

その議論については、まったくいきり立つ必要はなく、本当にただの風邪しかなかった2019年12月以前の暮らしを現時点での日本でやってみたらどうなるかを、淡々とシミュレーションしてみればいい。

まず、三密回避、ソーシャルディスタンスの確保、という概念は、まだなかったので誰も気にしない。

そして、マスクは奨励されておらず、用心深い人や、他人への気遣いが人一倍強い人が、インフルエンザの予防や人へうつすのを防ぐためにするぐらい。実際私も、ミャンマーの田舎道を走るトラックの荷台で全身安倍川餅になるときに、せめて喉と鼻を守るためにマスクをするぐらいで、日本でマスクをしたのは、小学生の給食当番以来だったかもしれない。

「ただの風邪」を声高に言っている人たちは、新しい生活基準の励行がうっとうしいと感じているようだから、以上の状況設定に異存はないだろう。

さらに、用心深い人は、インフルエンザのワクチンを接種する。

この部分では、新型コロナに関しては、かつての暮らしと同じにはできない。ワクチンや予防薬のあるあまたの他の風邪とは完全に違う点が、ここでまず一つ出てきた。

この、三密あり、ソーシャルディスタンスなし、一部の人のみマスク着用、新型コロナ用ワクチンなし、という態勢で世の中が動いていくとどうなるか…

まず、高齢者と基礎疾患のある人たちが、高い確率で新型コロナウィルスに感染することは間違いない。

そして、医療機関は、現在やっているように感染者を隔離し、治療にあたるだろう。

ここで再び、これまでで最強クラスの風邪だったインフルエンザとの比較。

致死率では、新型コロナはインフルエンザよりも一桁高い数字が、統計として出てきている。

けれども、医師の中には、ほぼ同じと言う先生もおり、比較するにはまだ統計不足と言う声もあるので、ここは仮に、同程度ということにしておこう。

それで、どちらも、ウィルスと体の相性が悪ければ、残念ながら亡くなってしまうことになるのだが、その逝き方はどうなのか…そこの比較も、決して無視できない大きな要素だと、私は思っている。

インフルエンザの場合、専用のワクチンも治療薬もあり、医師に診てもらえば、当然、専用の治療薬を処方してもらえる。それでも亡くなる人は亡くなる。

その際、最新の薬を処方してもダメだったんだから仕方がない、とか、予防接種させてなかったのが悔やまれる、とか、残念な想いはあるだろうけれども、納得はできるかもしれない。

それに対し、今、新型コロナウィルスに感染して亡くなった場合はどうか…

まだ治療法は確立していないため、治療薬の製造が間に合っていたなら、ワクチンが誕生していたなら、と、残念を通り越して無念が残るのではないだろうか。なかなか納得はしづらく、憤懣やる方のない形での旅立ち、お見送りとなるのではなかろうか。志村けんさんのお兄さんや大和田獏さんの悲痛なお姿は、決して忘れることはできない。

言わば、既存のインフルエンザなら人事を尽くして天命を待てるが、新型コロナウィルスの場合、尽くすべき人事が間に合っていない、という状態なのだ。

去年までの生活様式に戻して想像してみたが、未来を予測するには、自分たちのいる場所より外の世界から、仮定する条件に近い場所を探す、というやり方もある。

新型コロナウィルスはただの風邪、改まって特段の予防する必要なし、を地で行っている方々は世界にかなりいるようで、メディアで見る限りでは、アメリカの現状が、日本の未来を占う参考になりそうだ。

その答えは明白で、死者数を見ただけでも20万人の方々が亡くなっている。母体である総人口を日本の人口規模にまで落として換算したとしても、7万人超となる。

これはもう、東日本大震災に比べても一桁多く、未曾有の大惨事となっている。

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とにかく、アメリカ、ブラジル、インドは、他国に比べてグラフの縦線の桁が違っている。

大半のアメリカ人は日本人とは人種が違うから、と言っても、所詮、ホモサピエンス種の中での変異である。アメリカのウィルスは日本のとはタイプが違うから、と言っても、所詮、新型コロナウィルス種(SARS-CoV-2)の中での変異である。

それでもなお、アメリカ並の無防備さで社会を回しても、日本ではアメリカほどの死者は出ない、と言い切れる人が、誰かいるだろうか。いるなら出てきてほしい。そして、その根拠を披露してほしい。

社会全体で感染予防をしなければ、多くの人が感染し、高齢者や基礎疾患のある人は高い確率で死亡し、大勢の若い人、健康な人は、大事に至らずに生還する、という状況になるのは間違いない。知らぬ間に感染し、知らぬ間に多くの人に伝染させ、知らぬ間に回復しているかもしれない。

これで、ただの風邪と言っていいものかどうか…高齢者や基礎疾患のある弱者が亡くなるのは、地球が人類に仕掛けてきた間引きのようなもので仕方のないこと、と言い切れるだろうか…

私は、いろいろな局面で迷ったときには、自然の摂理ではどうなんだろうと、いったん立ち返るようにしている。そして、人として、どこまでそれに抵抗していいものかと。

これまでに私は、自然の摂理には従わずに人間の作り出した医療によって、致死の病であるマラリアから生還したし、思いがけず持っていた肝炎ウィルスを消滅させたし、老いに逆らって一本でも多く髪の毛を残そうと、薬業界頼みの悪あがきもしている。

現代の人間界は、「適者生存」という自然の摂理から離脱して、「弱者共存」という世界を作ろうと、闘いを挑み続けているようだ。

このような現代社会で、弱い人が死ぬのは仕方がないことと断言できるだろうか。

もし、相模原障害者施設殺人事件の犯人の思想を支持するような考えであるのなら、新型コロナウィルスへの特別な予防をする必要はない、という考えとも矛盾することはなく、それはそれで一つの思想として認める。従うか否かは別として。

一つ確認しておきたいのは、三密回避、ソーシャルディスタンス確保、マスクの励行などの予防策は、未来永劫、今後ずっと続くものではないということ。一応、ワクチンや予防薬ができるまでという期限付きの努力目標だ。

もし、残念ながらワクチンも予防薬もできないという結論が出てしまったなら、そのときこそ、生きる喜びとは何か、死とは何かを問い直し、人間の生存の仕方そのものを根本的に考え直すべき局面となるだろう。

怖がって離れて生きるよりも、やはりお互いが密着して共生してこそ人間、それでウィルスに弱い人から死んでいく、それが各々に与えられし寿命ということでいいじゃないかと。そのような死生観が社会の主流となる日も来るのかもしれない。次世代を作る若い人たちがそれを望むのなら…

接近も接触も気にせずおおらかに生きて、もし感染してしまったなら、それもさだめと受け入れ、相性が悪ければ、来たるべき死を心穏やかに待つ…

極限の死生観を持ち直さなければならない日々が来るのか否か。なんか、昭和の東宝映画「マタンゴ」を思い出してしまった。

ワクチンや治療薬が開発の途上にある今、白旗を揚げると人類が諦めたわけではない今、新たな死生観を問うのはまだ早いと、私は思っている。

そして、いよいよワクチンの開発に成功した暁にも、優先順位を真剣に考えなければならない命の選別にも似た過酷な決断を迫られる局面がやって来る。

日本のワクチンの見通しはと言うと…まさかまさかの外国頼み。持てる財力に物を言わせての外国の製薬会社への予約、順番待ち状態だ。

全国民の分はさっさと自前のワクチンで行き渡らせ、途上国への供与も世界の先陣を切って始めるぐらいではなかろうかと、世界を牽引していたイケイケの頃の日本の幻影を見てしまっていたが、今アジアでその席に座ろうとしているのは中国のようだ。

輸入できたワクチンは、政治家や医療関係者は医療の逼迫などを考慮して、医療従事者に次いで高齢者や基礎疾患のある人たちから接種するつもりでいるかもしれない。

自然の摂理も振り返った上での私自身の考えは、まずは、戦略的にも道義的にも医療関係者に真っ先にワクチンを接種することには大賛成だが、その次に考慮するのは、本来生きるべき年数をどれだけ残しているかということ。つまり、ワクチンを接種できる年齢に達したゼロ歳に近い幼児から機械的に順番に打っていくべきだと思っている。私などは、ずっと後のほうだ。

もう、60年もこの世界を体験した者よりも、まだ数年しか生きていない子の命を先に守るのは当然のことだと、私は思っている。

もし、日本からの出国やミャンマーへの入国にワクチンの接種が必須条件となり、公的な順番待ちとは別に自費でワクチンが接種できるということにでもなれば、たぶん私は懐と相談するだろう。

私はこのように考えているのだが、ただの風邪だと言い張っていた方々の場合は、やはり、ワクチン接種は一番後回しにしてくださいと申し出るおつもりでしょうか。特に、声高に扇動していたリーダー的な方ともなると、さすがに辞退を考えておられるのかもしれませんね。

ここまで冷静に見て考えてきた結果、次のように私は結論付ける。

「新型コロナはただの風邪」は、「トラはただのネコ」と言っているようなもの。

風邪なんて大ざっぱな枠ではない。ガチの分類学から見て、トラは確実にネコ科、つまりネコの一種で、新型コロナとインフルエンザの近さどころではなく、もっとピンポイントで同類の生き物と言ってもいい。

だったら、ネコなんだからと黙ってトラの子を買って許可なく自宅で飼ってもいいものか…でかくなりすぎたなら「親切な人に見つけてもらってね」と、段ボール箱ならぬリアカーにでも積んで空き地に置き去りにしてもいいものか…

ただのネコではなく、正しくは、「トラは人も殺せるネコの仲間」と言うべき。科学的にも。

あえて風邪という言葉にこだわるのなら、新型コロナは、「猛烈な風邪」または「致命的な風邪」ぐらいの表現がふさわしい、少なくともワクチンと治療薬ができるまでは、と、私は感じている次第。いかがだろう…

新型コロナウィルスで亡くなられたすべての皆様のご冥福をお祈りいたします。

大西信吾

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