2021年9月2日木曜日

コロナと脱炭素と原発 ―COVID-19 & Decarbonization & Nuclear power plant

オリンピックは、たまたまタッチの差でセーフだったが、高校野球が、もろに秋雨前線の影響を受けてしまった。

たまに雲が湧き夕立が降ったりしても、ほぼ光あふれる空の下で試合ができる時期、という夏の季節感は、もう通用しなくなってきている。

それに合わせて試合の実施要領も変えてあげなければ。

 

雨天コールドとかノーゲームとかではなく、雨天中断のままにして、違う日にでも続きの回から始めたほうが、公平で双方納得できると思うし、費やした時間も体力も無駄にならないですむ。

一試合が二日三日と数珠繋ぎになったとしても、これからの時代はやむを得ないだろう、屋根なし会場でやる限りは。

ベスト4に残ったのが、どんなに順延が続いても地元でふつうに待機できる近畿勢のみ、という結果には、秋雨前線停滞が影響したかもしれない。

 

まだ、パラリンピックの閉会式は残っている。

雨が降らないとは限らない。降ったら、どうするつもりなのだろう…

 

もう一つの現在直面中の自然災害、新型コロナは、オリンピックでも高校野球でも、陽性検出による棄権敗退という誰もが辛い状況に忖度なく陥れており、ウィルスvsワクチンによる大将戦の闘いは果てしなく続きそうで、現在は、ウィルスの変異のほうがワクチンの改良の機先を制しているように見える。

 

スペイン風邪が爆発した時代は、ワクチンや治療薬も未熟で、おそらく、元々ウィルスに抵抗できない体であった人の多くは亡くなり、自然体で抵抗できる人たちが主に生き残って、そこで自然淘汰が働いたことになる。

つまり、ウィルスに抵抗力のある生存者同士での婚姻が繰り返されることで、集団免疫ができやすい人類に遺伝的に凝縮され、結果、インフルエンザはただの風邪になっていったと想像する。言わば、自然界に近い適者生存の時代だ。

 

それに対して現代は、自然体ではウィルスに勝てない人でもワクチンや治療薬で救命し、人為的な助けを借りて集団免疫を獲得しようとしている。言わば、自然淘汰にあらがう弱者共存の時代だ。

なので、潜在的に抵抗力のある者同士の遺伝子が凝縮されていくわけではないため、新型コロナはただの風邪と言えるほどに免疫力が備わった人類になるまでには、インフルエンザよりもてこずりそうで、世代交代を何代か待たなければならないかもしれない。

 

感染症の流行に対しても、気候変動は無縁ではない。

現代人がまだ遭ったことのない未確認ウィルスが、地球温暖化により、弾けて出てくる可能性が現実味を帯びてきている。

未確認ウィルスを封印し続けている最大のパンドラの箱は、ツンドラの永久凍土で、次いで未開の原生林が未確認ウィルスを生きたまま囲い込んでいるはずだ。

 

植物は、光合成により二酸化炭素を吸収し、呼吸により排出してもいるが、体に炭素を蓄積していくので、森林がなくなると炭素の貯蔵庫を失うことになる。同時に、森に囲い込まれていたウィルスも拡散することになる。

さらに、山火事などで木々が焼けてしまえば、せっかく溜め込んでいた炭素が大気中に一気に放出されてしまって、光合成による吸着が間に合わず、地球温暖化に拍車をかけることになる。そして、北極圏の永久凍土を溶かし、いよいよ未確認ウィルスを目覚めさせ、大量に放出させることとなる。

 

この悪循環を止めるためには、炭素貯蔵庫である森林のボリュームを維持し、できれば増大させ、同時に、新たな炭素の放出は減らせるだけ減らすというのが、ハズレのない正攻法である。いわゆる脱炭素社会の実現を目指すということが、全人類の目標となった。

 

温暖化も海面上昇もまやかしだという意見も根強くあったが、ここ最近では、かなり鈍感な大人でも、昔よりも暑くなったと体感できるほどになってしまい、このまま灼熱化してゆく地球の上では人類は生きられなくなってしまうのではないかと、誰にでも想像できるようになってきた。

 

もし、全世界のエアコンを一斉に停止して室内と外気の温度を同じにすれば、平均気温は昔とさほど変わっていないのかもという一抹の可能性も、なきしもあらずだが、とにかく、大気中の二酸化炭素濃度を下げることが温度上昇を抑えるという因果関係があることは間違いなさそうだ。

 

その、脱炭素の問題で避けて通れない課題が、発電の方法と交通機関で、特に発電所と自動車の関係性には、これからは、いっそう注目していかなければならないだろう。

 

脱炭素で俄然注目されているのがEVElectric Vehicle)、電気自動車だが、私はいまだに、電気自動車とガソリン車と、どちらがエコなのか、よく分からないでいる。

世間では圧倒的な判定が下されているようだが、日本などの先進国は、ミャンマーの田舎や山中などに比べると、ものごとの起承転結が見えづらい社会構造になっている。

 

もし、自宅の屋根のソーラーパネルから直接EVに充電して走っているのなら、間違いなくガソリン車よりもエコである。脱炭素と言ってもいい。

けれども、公共の電気を使っている場合、エネルギー源を選ぶ権利はこちらにはなく、必ずしもエコだとは言い難い。

 

ほぼ脱炭素のEVに乗りたいなら、例えばフランスに行けばいい。

フランスだったら、発電の7割近くが原発からなので、大半が脱炭素のエネルギーを使ってEVで走れることになる。私から言わせれば、もはやNVNuclear Vehicle)、原子力自動車だ。

そんな車に乗るぐらいだったら、ガソリンをばんばん燃やして走るほうが、よっぽど気が休まる、私なら。

https://www.renewable-ei.org/statistics/international/

https://sustainablejapan.jp/2020/04/03/world-electricity-production/14138


日本では、公共の電気を充電してEVに乗る場合、この車は二酸化炭素を出さないと言うには語弊がある。その電気の供給源には間違いなく火力発電所が含まれているはずだから。

2020年では、全発電電力量に占める火力の割合は、74.9%となっている。

https://www.isep.or.jp/archives/library/13188


それでもEVは炭素を出さないと言い張るなら、これはもう、日頃、肉料理や魚料理を食べているにも関わらず、私は動物を殺したことがない、殺生はしないと宣言しているようなものだ。

それに比べ、起承転結の見える社会に暮らしている多くの人々は、自分が食べるものは自分の手で殺して捌いて食べている。

自分の手は汚してなくても、誰かが殺してくれたものを食べている限りは同罪ではないか?むしろ、どっちが明解か、どっちが潔いか…

 

自らが二酸化炭素をどんどん放出しながら走る車か、または、二酸化炭素をどんどん放出して作った電気を糧にして走る車か。

肝心の部分がオーナーの目に見えているかいないかのプロセスの違いだけのことではないだろうか。

 

そもそも、ガソリン車vs電気自動車という比較には違和感がある。前提となる基準が違っている。

ガソリンとかディーゼルとか、これは燃料の呼び名であって、言わば、原材料とかエネルギー源を指していて、それが石油であることが分かる。

それに対して、電気自動車と言っても、雷とか静電気とか自然界の電気資源を集めて走っているわけではなく、つまり、ここで言う電気とは、原材料、エネルギー源のことでなくて仕組みのことを指している。

 

なので、動力の仕組みという基準で分類するならば、例えば、片や電気動力車に対し、片や燃焼爆発動力車とでも呼ぶべきだろう。他にも動力の仕組み・機関には、水蒸気動力や空気圧動力や磁気動力などがある、というわけだ。

 

そして、その原材料、エネルギー源は何かと問われれば、石油だったりガスだったり石炭だったり原子力だったり水力だったり日光だったり風だったりする。

つまり、車の分類には、動力の仕組みによる分類とエネルギー源による分類の二つの基準を設けることができ、現在はそれが混在して使われている。

例えば、私の車は燃焼爆発動力車で、エネルギー源は石油。友人の車は電気動力車で、エネルギー源は、石油や天然ガスや原子力や水や日光や風や…時と場所次第というわけだ。

 

以上のことから、“ガソリン車vs電気自動車”という図式は、“エネルギー源vs動力の仕組み”で並べた科学的にアンフェアな対比のように私には見えている。

 

フェアな分類法でもって見直せば、現在、脱炭素自動車に最も近いのは、水素で走る車かもしれない。

これには、既に販売されている電気動力系のものと走行試験中の燃焼爆発系のものがあるが、製造工程などを除く走行そのものに関しては、EVと同様、ほぼ脱炭素でいられる。

課題も、EVの給電元に差があるのと同じく、水素を製造する過程で、いかに二酸化炭素の排出を抑えるかだ。

https://toyotatimes.jp/chief_editor/070.html

 

希望ある選択肢は多いほどいいが、今のところ、ポストハイブリッドのエコカーとして先行しているはEVなので、これを真の脱炭素車に近づけるためには、大元の発電を火力以外のものに切り替えていく必要がある。

そこで、既存の施設の中で二酸化炭素排出ゼロで電気を供給できる最右翼は何かとなれば、原子力発電所となる。フランス指向だ。

 

原発がばんばん建設されていた高度経済成長期には、人々は無限の可能性を本気で信じ、“人間ならできる”というムードで世の中が満たされていた。

けれども、何十年も経て明らかになってきたことは、逆に、”人間はミスを犯してしまうもの”ということだったように思える。

原発で言えば、いくら何重もの防御対策を施していても、それらを突破した事故は何度も起こっている、当事者の悪意の有無に関わらず。

 

その極致が福島の原発事故だったわけだが、私はもう、原子力は人の手に負えるものではないということが判明したと思っている。

そもそも、使用済み核燃料を廃棄する方法も確立していないままで原子力発電を続けてきたことは、国家政策としてはズボラすぎる、順番が逆だ。

ゴミ捨て場の決まってない町やマンションに誰が住みたがるだろうか。ゴミ箱のない部屋でいつまで暮らし続けられるだろうか。キャパを越えてしまえばそれまでだ。

 

人類の可能性を盲信していた高度経済成長期には、「あとは子孫の世代に託す、なんとかするだろうさ」みたいなことが平気で言われていたものだが、現在、未来を託される世代の人たちは、負の遺産を押し付けられようとしていることに、忖度なく怒り始めている。当然だ。

 

福島の事故のあと、小泉元首相が唐突に原発反対を公言し始めて、スタンドプレーではないかと疑われていたが、私はそうは思わず、やっぱり!と思った。

大合併による小さな町村の消滅や、今になって弊害が出ている保健所の縮小など、総理時代にやった政策は特に評価はしていないが、北朝鮮訪問とか解散総選挙とかの突飛な行動はスタンドプレーでは片付けられず、よくよくケンカの勘所を分かっている人だなあという印象を持っていた。

 

ケンカや格闘技を熟知している者ほど、組んだ瞬間に相手の強さが分かると言う。

小泉氏は、福島の原発事故が起こってすぐに、これは人間がケンカを挑める相手ではないと直感したのではないだろうか。負け知らずのエリートコースを歩んできた政治家とは違った感覚で受け止めたのではないだろうか。

 

2018年に北海道胆振(いぶり)東部地震が発生した際、全道停電という前代未聞の事態が起こり、復旧に1週間以上かかってしまった。

マスコミは原因究明と北電などの責任追及ばかりを続けていたが、私はその姿勢を怪訝に思っていた。なぜ福島と対比しないのかと。

もちろん、道民のみなさんにはお気の毒だったが、1週間で元通りになってしまった!というのが私の率直な感想だった。

 

火力発電所がいったん復旧してしまったなら、あとは以前と同じ、無防備に敷地に近づこうが入ろうが何の問題もない。

それに比べて福島原発は、もう500週間以上も経過しているのに、いまだに近づくことすらできないでいる。

地球上にふつうにある物質で作られたものなら、壊れたらそれでおしまい、燃え尽きたらそれでおしまい、もう何も生まないが何も残さない。

原発だけは、もし壊れたら、人を殺傷する目に見えないものが、長期に、もしかしたら永遠に残ることになる。他の天然物質とは決定的に違う、原子力だけは特別という所以だ。

 

もし、巨大隕石が地球に衝突して、標高千メートル以下が巨大津波ですべて洗い流されたとしても、百年前の環境であったなら千メートル以上にいた人たちは生き延びて人類滅亡は避けられるだろう。

けれども、各地の原発から放射性物質が大気中に放出されてしまったなら、せっかく水没を免れた人々も、やがて息絶えることになるだろう。この差は、とてつもなく大きい。

 

火力でもない原子力でもないならばと期待されるのが再生可能エネルギー、中でも開発と普及が進んでいるのが太陽光発電と風力発電だが、施設周辺の環境や住民の健康への影響が問題になっている。

人工物を建造すれば環境にインパクトを与えてしまうというのは避けられないことだが、無公害エネルギーのために環境を壊すというのでは本末転倒になってしまう。そこで、よく考えなければならないのは、どのあたりで妥協の線を引くかということだ。

 

例えば、もともと人工物の一角である屋根などのデッドスペースに積極的にソーラーパネルを敷くのには賛成だけど、日当たりの角度がいいからと、わざわざ山肌を削ってまでパネルを配置して土砂崩れのリスクを高めたりするのには反対である。

 

山は、やはり森林のままにしておくほうがいい。

エネルギー源としても、再生可能というイメージとは遠い木炭でも、実は無限に再生産が可能だし、資材としての木材も永久に収穫ができる、地球が健全である限りは。

これは、森林資源が、限りある地下資源、鉱物資源とは決定的に違うセールスポイントだが、脱炭素を目的とするのであれば、木炭に主役を張らせるわけにはいかない。

 

そこで、わざわざ狭い陸地にこだわるよりも、排他的経済水域面積世界第6位にもなる日本の海を、なぜもっと活用しないのかと思う。

海と言えば風ということで、まずは洋上風力発電を思い浮かべるが、建設コストが比較的抑えられる浅瀬は、既にほとんど人手が加わってしまっており、これ以上生態系を壊さないでという状態にある。設置するなら、ゴミの埋立地のような人工の瀬の上のほうがいい。

それよりも、ソーラーパネルを海に浮かべるほうが、環境へのインパクトも設置コストも小さくてすむような気がする。

碁盤の目状にパネルを並べて仕切りのラインを隙間にしてやれば、海中まで日光が届くし、パネルの下に房状のものでも垂らせば稚魚を寄せつける漁礁にもなりうるので、天然魚介類を養う筏としても機能するかもしれない。

 

さらに、日本列島を取り囲むように巡っている大海流たちの巨大なパワーを利用しない手はない。

水が落ちるパワーでタービンを回す水力発電は、雨が少なければ使えなくなってくるが、海流は絶え間なく流れているので安定してタービンを回してもらえるはずだ。

https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN8/sv/teach/kaisyo/stream4.html

逆に不安定なのは流路のほうで、流れのコースは蛇行するため、ほぼ不動のルートになっている場所を見極め、さらに、タービンを抱えたまま海上を移動できる施設にしておいたほうが無難だ。日本の船舶技術ならなんとかなるのではないかと期待するのだが…

 

ここで再び陸地に戻ろう。

狭いとか資源がないとか言われている日本において、面積世界第6位の海以上に、世界屈指の規模を誇る資源がある。

アメリカ、インドネシアに次いで日本が世界第3位というそれは、地熱である。

一般的に地熱資源と呼ばれるが、あとどれぐらいあるかというような埋蔵物ではなく、熱を出し続ける力、言わば、国土からどれぐらいの熱量が絶えず発せられているかという、そのポテンシャルをキロワットで表したものだ。

https://geothermal.jogmec.go.jp/information/plant_foreign/

 

地熱も再生可能エネルギーに分類されるが、止まることもある風や水と違って、地球が生き続けている限りは出続けるものなので、再生と言うよりも、地熱と太陽光は常在エネルギーとでも呼ぶべきかもしれない。

 

その無限にある世界第3位の資源を、なんで日本政府はみすみす放置しているのか。

理由はいろいろ挙げられていて、まず、地下深くにある地熱資源の調査精度が低くて開発リスクが高いと言われているのだが、そんなことでビビるとは、(かつての)技術立国の看板が泣く。温泉の源泉を掘り当てる掘削工事などはばんばんやっているのに。

 

もはや技術がないなら、既に成功させている国から学べばいい。

アイスランドでは、電力をほぼ再生可能エネルギーで賄っており、そのうち約30%が地熱発電だそうだ。

日本の375分の1ほどの人口しかいない小国だからできるんだという意見もあるかもだが、GDPを比較すれば、日本はアイスランドの約210倍の額になる。GDP世界第3位の国が金のことでもビビるとは、情けなさすぎやしないか。

https://www.env.go.jp/earth/report/h26-08/05.pdf

 

さらに、よく耳にするのが、有効な地熱資源があるのは風光明媚な火山の近くなので、その約8割が国立公園内の特別保護地域・特別地域にあるため開発が許可されない、ということ。

このコロナ禍においても痛切に感じることだが、なんで日本政府は、国民の合意でどうにでもなる法律を足かせにしたがるのだろう。

天然資源は、いくら国土をくまなく探しても、ないものはない、出ないものは出ない。これは自然任せでどうにもならないこと。

けれども、人間の側の問題ならば、話し合えば、いくらでも解決の糸口は見つかるはず。

 

日本は、他の多くの国が願っても手に入れられない莫大な地熱資源を自然から与えられている。なのにそれを、ちっぽけな人間が作ったちっぽけな法律のせいで手が付けられないと言う。意味が分からないし、脱炭素への本気度が感じられない。

まさか、すべての週末ナチュラリストの夢を壊さないでおこう、なんてことではあるまいし。

 

開発による自然破壊云々という話になると、昭和人間からすれば、何を今さら、という気がしないでもない。

最も歴史ある再生可能エネルギー利用、水力発電所の開発において、日本は、各地の山村をダム湖の底に沈めてきた。

週末ナチュラリストの安息の権利どころではない。生まれた土地に住む権利すら奪ってきたという歴史を、日本はたどってきたのだ。おそらく何百もの集落の何万もの人たちに対して。

 

景観のほうでは、瀬戸内海国立公園の一角である鳴門の渦潮の真上に平気で大橋を渡すし、各地の山岳景勝地では、スカイライン道路を貫くために山腹を削って、谷底から山頂まで一続きだった森林を分断し、渓流に岩石や土砂を落とし、生態系を撹乱してしまった。

 

そういう歴史があるからこそ、せめて今残っている自然だけでも死守しなければという気持ちは、私にもある。

けれども、この地球大変動の時代に、何を起こすべきか、そのためには何を残し何を犠牲にするのか…深く考えて線引きしなければならない時が来るのではないかと想像してしまうのだ。

自然には手を付けない、環境に優しい技術に転換したい、現在の文化的生活水準は維持したい等々、すべての欲求を満たすことは不可能だろう。

 

要は、日本の、世界の、どんな未来を望むのか、描くのかである。

グローバルに環境を改善するためには、ミクロな自然の消失には目をつぶらなければならない場面が出てくるかもしれない。

もちろん、絶滅の恐れのある生物の生息地などは開発候補地から外した上で、さらに強い特別保護地域とすべきだが、エネルギー転換の緊急度次第では、県レベルの絶滅危惧種などは、特別保護扱いを望めないかもしれない。

 

例えば、A県では希少な種でもB県にはうじゃうじゃいるとなったら、県境は取っ払って、A県の山は開発候補地、B県の山は特別保護地域、とされるかもしれない。

日本地図を俯瞰するマクロな視点で判断して、一人一人の学者や活動家の想いに一つ一つ応えることはできないという切迫した状況に、この先なりうるかも、という仮定と覚悟の話である。

渦潮を跨ぐ大橋の景観をよしとするならば、発電事業においても、利便性と原生保護の兼ね合いは、どこかで妥協点を決断しなければならないのかもしれない。

 

新しいこと思い切ったことができないということにかけては、今の日本は世界のトップクラスだと思う。この全世界的なコロナ禍の戦いにおいても、日本は何のイノベーションも起こせなかった。海外で作られたワクチンや治療薬を買うだけ。

あらゆる分野において、日本発の新製品が世界を救うような場面を目にすることは、もう生きている間は無理なのかもしれない。

 

このコロナ禍で痛感させられたが、日本的民主主義というものは、一方では自由奔放主義で、一方では、あらゆる組織をがんじがらめにして新しいことが何一つできないような仕組みになっているかのようで、両極端が混在しているように見えてしまう。

なんせ、中国では一週間ほどで完成させたコロナ専用病院が、一年経ってもまだできないでいるのだから。

 

もう一つ、やはり気になるのは、原子力の呪縛ということ。

原子力によって敗戦した日本は、原子力によって再び国を興して世界を制するんだというような終戦後の怨念が、いまだに政界には蠢いているようなムードを感じてしまう。

 

広大な海を利用しないのも、地熱発電に消極的なのも、すべては原発の再興を正当化するためではなかろうかと。安定的に電力を供給できるクリーンエネルギーは、やっぱり原子力しかないでしょ、みたいな。

 

原子力の呪縛、夢の原発神話からいまだ脱却できないでいるかのような日本のエネルギー政策。

世界を変えるイノベーションを連発していた頃の日本。過信もあっただろうが、今となっては懐かしい。

昭和は遠くなりにけり…

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