2021年9月2日木曜日

コロナと脱炭素と原発 ―COVID-19 & Decarbonization & Nuclear power plant

オリンピックは、たまたまタッチの差でセーフだったが、高校野球が、もろに秋雨前線の影響を受けてしまった。

たまに雲が湧き夕立が降ったりしても、ほぼ光あふれる空の下で試合ができる時期、という夏の季節感は、もう通用しなくなってきている。

それに合わせて試合の実施要領も変えてあげなければ。

 

雨天コールドとかノーゲームとかではなく、雨天中断のままにして、違う日にでも続きの回から始めたほうが、公平で双方納得できると思うし、費やした時間も体力も無駄にならないですむ。

一試合が二日三日と数珠繋ぎになったとしても、これからの時代はやむを得ないだろう、屋根なし会場でやる限りは。

ベスト4に残ったのが、どんなに順延が続いても地元でふつうに待機できる近畿勢のみ、という結果には、秋雨前線停滞が影響したかもしれない。

 

まだ、パラリンピックの閉会式は残っている。

雨が降らないとは限らない。降ったら、どうするつもりなのだろう…

 

もう一つの現在直面中の自然災害、新型コロナは、オリンピックでも高校野球でも、陽性検出による棄権敗退という誰もが辛い状況に忖度なく陥れており、ウィルスvsワクチンによる大将戦の闘いは果てしなく続きそうで、現在は、ウィルスの変異のほうがワクチンの改良の機先を制しているように見える。

 

スペイン風邪が爆発した時代は、ワクチンや治療薬も未熟で、おそらく、元々ウィルスに抵抗できない体であった人の多くは亡くなり、自然体で抵抗できる人たちが主に生き残って、そこで自然淘汰が働いたことになる。

つまり、ウィルスに抵抗力のある生存者同士での婚姻が繰り返されることで、集団免疫ができやすい人類に遺伝的に凝縮され、結果、インフルエンザはただの風邪になっていったと想像する。言わば、自然界に近い適者生存の時代だ。

 

それに対して現代は、自然体ではウィルスに勝てない人でもワクチンや治療薬で救命し、人為的な助けを借りて集団免疫を獲得しようとしている。言わば、自然淘汰にあらがう弱者共存の時代だ。

なので、潜在的に抵抗力のある者同士の遺伝子が凝縮されていくわけではないため、新型コロナはただの風邪と言えるほどに免疫力が備わった人類になるまでには、インフルエンザよりもてこずりそうで、世代交代を何代か待たなければならないかもしれない。

 

感染症の流行に対しても、気候変動は無縁ではない。

現代人がまだ遭ったことのない未確認ウィルスが、地球温暖化により、弾けて出てくる可能性が現実味を帯びてきている。

未確認ウィルスを封印し続けている最大のパンドラの箱は、ツンドラの永久凍土で、次いで未開の原生林が未確認ウィルスを生きたまま囲い込んでいるはずだ。

 

植物は、光合成により二酸化炭素を吸収し、呼吸により排出してもいるが、体に炭素を蓄積していくので、森林がなくなると炭素の貯蔵庫を失うことになる。同時に、森に囲い込まれていたウィルスも拡散することになる。

さらに、山火事などで木々が焼けてしまえば、せっかく溜め込んでいた炭素が大気中に一気に放出されてしまって、光合成による吸着が間に合わず、地球温暖化に拍車をかけることになる。そして、北極圏の永久凍土を溶かし、いよいよ未確認ウィルスを目覚めさせ、大量に放出させることとなる。

 

この悪循環を止めるためには、炭素貯蔵庫である森林のボリュームを維持し、できれば増大させ、同時に、新たな炭素の放出は減らせるだけ減らすというのが、ハズレのない正攻法である。いわゆる脱炭素社会の実現を目指すということが、全人類の目標となった。

 

温暖化も海面上昇もまやかしだという意見も根強くあったが、ここ最近では、かなり鈍感な大人でも、昔よりも暑くなったと体感できるほどになってしまい、このまま灼熱化してゆく地球の上では人類は生きられなくなってしまうのではないかと、誰にでも想像できるようになってきた。

 

もし、全世界のエアコンを一斉に停止して室内と外気の温度を同じにすれば、平均気温は昔とさほど変わっていないのかもという一抹の可能性も、なきしもあらずだが、とにかく、大気中の二酸化炭素濃度を下げることが温度上昇を抑えるという因果関係があることは間違いなさそうだ。

 

その、脱炭素の問題で避けて通れない課題が、発電の方法と交通機関で、特に発電所と自動車の関係性には、これからは、いっそう注目していかなければならないだろう。

 

脱炭素で俄然注目されているのがEVElectric Vehicle)、電気自動車だが、私はいまだに、電気自動車とガソリン車と、どちらがエコなのか、よく分からないでいる。

世間では圧倒的な判定が下されているようだが、日本などの先進国は、ミャンマーの田舎や山中などに比べると、ものごとの起承転結が見えづらい社会構造になっている。

 

もし、自宅の屋根のソーラーパネルから直接EVに充電して走っているのなら、間違いなくガソリン車よりもエコである。脱炭素と言ってもいい。

けれども、公共の電気を使っている場合、エネルギー源を選ぶ権利はこちらにはなく、必ずしもエコだとは言い難い。

 

ほぼ脱炭素のEVに乗りたいなら、例えばフランスに行けばいい。

フランスだったら、発電の7割近くが原発からなので、大半が脱炭素のエネルギーを使ってEVで走れることになる。私から言わせれば、もはやNVNuclear Vehicle)、原子力自動車だ。

そんな車に乗るぐらいだったら、ガソリンをばんばん燃やして走るほうが、よっぽど気が休まる、私なら。

https://www.renewable-ei.org/statistics/international/

https://sustainablejapan.jp/2020/04/03/world-electricity-production/14138


日本では、公共の電気を充電してEVに乗る場合、この車は二酸化炭素を出さないと言うには語弊がある。その電気の供給源には間違いなく火力発電所が含まれているはずだから。

2020年では、全発電電力量に占める火力の割合は、74.9%となっている。

https://www.isep.or.jp/archives/library/13188


それでもEVは炭素を出さないと言い張るなら、これはもう、日頃、肉料理や魚料理を食べているにも関わらず、私は動物を殺したことがない、殺生はしないと宣言しているようなものだ。

それに比べ、起承転結の見える社会に暮らしている多くの人々は、自分が食べるものは自分の手で殺して捌いて食べている。

自分の手は汚してなくても、誰かが殺してくれたものを食べている限りは同罪ではないか?むしろ、どっちが明解か、どっちが潔いか…

 

自らが二酸化炭素をどんどん放出しながら走る車か、または、二酸化炭素をどんどん放出して作った電気を糧にして走る車か。

肝心の部分がオーナーの目に見えているかいないかのプロセスの違いだけのことではないだろうか。

 

そもそも、ガソリン車vs電気自動車という比較には違和感がある。前提となる基準が違っている。

ガソリンとかディーゼルとか、これは燃料の呼び名であって、言わば、原材料とかエネルギー源を指していて、それが石油であることが分かる。

それに対して、電気自動車と言っても、雷とか静電気とか自然界の電気資源を集めて走っているわけではなく、つまり、ここで言う電気とは、原材料、エネルギー源のことでなくて仕組みのことを指している。

 

なので、動力の仕組みという基準で分類するならば、例えば、片や電気動力車に対し、片や燃焼爆発動力車とでも呼ぶべきだろう。他にも動力の仕組み・機関には、水蒸気動力や空気圧動力や磁気動力などがある、というわけだ。

 

そして、その原材料、エネルギー源は何かと問われれば、石油だったりガスだったり石炭だったり原子力だったり水力だったり日光だったり風だったりする。

つまり、車の分類には、動力の仕組みによる分類とエネルギー源による分類の二つの基準を設けることができ、現在はそれが混在して使われている。

例えば、私の車は燃焼爆発動力車で、エネルギー源は石油。友人の車は電気動力車で、エネルギー源は、石油や天然ガスや原子力や水や日光や風や…時と場所次第というわけだ。

 

以上のことから、“ガソリン車vs電気自動車”という図式は、“エネルギー源vs動力の仕組み”で並べた科学的にアンフェアな対比のように私には見えている。

 

フェアな分類法でもって見直せば、現在、脱炭素自動車に最も近いのは、水素で走る車かもしれない。

これには、既に販売されている電気動力系のものと走行試験中の燃焼爆発系のものがあるが、製造工程などを除く走行そのものに関しては、EVと同様、ほぼ脱炭素でいられる。

課題も、EVの給電元に差があるのと同じく、水素を製造する過程で、いかに二酸化炭素の排出を抑えるかだ。

https://toyotatimes.jp/chief_editor/070.html

 

希望ある選択肢は多いほどいいが、今のところ、ポストハイブリッドのエコカーとして先行しているはEVなので、これを真の脱炭素車に近づけるためには、大元の発電を火力以外のものに切り替えていく必要がある。

そこで、既存の施設の中で二酸化炭素排出ゼロで電気を供給できる最右翼は何かとなれば、原子力発電所となる。フランス指向だ。

 

原発がばんばん建設されていた高度経済成長期には、人々は無限の可能性を本気で信じ、“人間ならできる”というムードで世の中が満たされていた。

けれども、何十年も経て明らかになってきたことは、逆に、”人間はミスを犯してしまうもの”ということだったように思える。

原発で言えば、いくら何重もの防御対策を施していても、それらを突破した事故は何度も起こっている、当事者の悪意の有無に関わらず。

 

その極致が福島の原発事故だったわけだが、私はもう、原子力は人の手に負えるものではないということが判明したと思っている。

そもそも、使用済み核燃料を廃棄する方法も確立していないままで原子力発電を続けてきたことは、国家政策としてはズボラすぎる、順番が逆だ。

ゴミ捨て場の決まってない町やマンションに誰が住みたがるだろうか。ゴミ箱のない部屋でいつまで暮らし続けられるだろうか。キャパを越えてしまえばそれまでだ。

 

人類の可能性を盲信していた高度経済成長期には、「あとは子孫の世代に託す、なんとかするだろうさ」みたいなことが平気で言われていたものだが、現在、未来を託される世代の人たちは、負の遺産を押し付けられようとしていることに、忖度なく怒り始めている。当然だ。

 

福島の事故のあと、小泉元首相が唐突に原発反対を公言し始めて、スタンドプレーではないかと疑われていたが、私はそうは思わず、やっぱり!と思った。

大合併による小さな町村の消滅や、今になって弊害が出ている保健所の縮小など、総理時代にやった政策は特に評価はしていないが、北朝鮮訪問とか解散総選挙とかの突飛な行動はスタンドプレーでは片付けられず、よくよくケンカの勘所を分かっている人だなあという印象を持っていた。

 

ケンカや格闘技を熟知している者ほど、組んだ瞬間に相手の強さが分かると言う。

小泉氏は、福島の原発事故が起こってすぐに、これは人間がケンカを挑める相手ではないと直感したのではないだろうか。負け知らずのエリートコースを歩んできた政治家とは違った感覚で受け止めたのではないだろうか。

 

2018年に北海道胆振(いぶり)東部地震が発生した際、全道停電という前代未聞の事態が起こり、復旧に1週間以上かかってしまった。

マスコミは原因究明と北電などの責任追及ばかりを続けていたが、私はその姿勢を怪訝に思っていた。なぜ福島と対比しないのかと。

もちろん、道民のみなさんにはお気の毒だったが、1週間で元通りになってしまった!というのが私の率直な感想だった。

 

火力発電所がいったん復旧してしまったなら、あとは以前と同じ、無防備に敷地に近づこうが入ろうが何の問題もない。

それに比べて福島原発は、もう500週間以上も経過しているのに、いまだに近づくことすらできないでいる。

地球上にふつうにある物質で作られたものなら、壊れたらそれでおしまい、燃え尽きたらそれでおしまい、もう何も生まないが何も残さない。

原発だけは、もし壊れたら、人を殺傷する目に見えないものが、長期に、もしかしたら永遠に残ることになる。他の天然物質とは決定的に違う、原子力だけは特別という所以だ。

 

もし、巨大隕石が地球に衝突して、標高千メートル以下が巨大津波ですべて洗い流されたとしても、百年前の環境であったなら千メートル以上にいた人たちは生き延びて人類滅亡は避けられるだろう。

けれども、各地の原発から放射性物質が大気中に放出されてしまったなら、せっかく水没を免れた人々も、やがて息絶えることになるだろう。この差は、とてつもなく大きい。

 

火力でもない原子力でもないならばと期待されるのが再生可能エネルギー、中でも開発と普及が進んでいるのが太陽光発電と風力発電だが、施設周辺の環境や住民の健康への影響が問題になっている。

人工物を建造すれば環境にインパクトを与えてしまうというのは避けられないことだが、無公害エネルギーのために環境を壊すというのでは本末転倒になってしまう。そこで、よく考えなければならないのは、どのあたりで妥協の線を引くかということだ。

 

例えば、もともと人工物の一角である屋根などのデッドスペースに積極的にソーラーパネルを敷くのには賛成だけど、日当たりの角度がいいからと、わざわざ山肌を削ってまでパネルを配置して土砂崩れのリスクを高めたりするのには反対である。

 

山は、やはり森林のままにしておくほうがいい。

エネルギー源としても、再生可能というイメージとは遠い木炭でも、実は無限に再生産が可能だし、資材としての木材も永久に収穫ができる、地球が健全である限りは。

これは、森林資源が、限りある地下資源、鉱物資源とは決定的に違うセールスポイントだが、脱炭素を目的とするのであれば、木炭に主役を張らせるわけにはいかない。

 

そこで、わざわざ狭い陸地にこだわるよりも、排他的経済水域面積世界第6位にもなる日本の海を、なぜもっと活用しないのかと思う。

海と言えば風ということで、まずは洋上風力発電を思い浮かべるが、建設コストが比較的抑えられる浅瀬は、既にほとんど人手が加わってしまっており、これ以上生態系を壊さないでという状態にある。設置するなら、ゴミの埋立地のような人工の瀬の上のほうがいい。

それよりも、ソーラーパネルを海に浮かべるほうが、環境へのインパクトも設置コストも小さくてすむような気がする。

碁盤の目状にパネルを並べて仕切りのラインを隙間にしてやれば、海中まで日光が届くし、パネルの下に房状のものでも垂らせば稚魚を寄せつける漁礁にもなりうるので、天然魚介類を養う筏としても機能するかもしれない。

 

さらに、日本列島を取り囲むように巡っている大海流たちの巨大なパワーを利用しない手はない。

水が落ちるパワーでタービンを回す水力発電は、雨が少なければ使えなくなってくるが、海流は絶え間なく流れているので安定してタービンを回してもらえるはずだ。

https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN8/sv/teach/kaisyo/stream4.html

逆に不安定なのは流路のほうで、流れのコースは蛇行するため、ほぼ不動のルートになっている場所を見極め、さらに、タービンを抱えたまま海上を移動できる施設にしておいたほうが無難だ。日本の船舶技術ならなんとかなるのではないかと期待するのだが…

 

ここで再び陸地に戻ろう。

狭いとか資源がないとか言われている日本において、面積世界第6位の海以上に、世界屈指の規模を誇る資源がある。

アメリカ、インドネシアに次いで日本が世界第3位というそれは、地熱である。

一般的に地熱資源と呼ばれるが、あとどれぐらいあるかというような埋蔵物ではなく、熱を出し続ける力、言わば、国土からどれぐらいの熱量が絶えず発せられているかという、そのポテンシャルをキロワットで表したものだ。

https://geothermal.jogmec.go.jp/information/plant_foreign/

 

地熱も再生可能エネルギーに分類されるが、止まることもある風や水と違って、地球が生き続けている限りは出続けるものなので、再生と言うよりも、地熱と太陽光は常在エネルギーとでも呼ぶべきかもしれない。

 

その無限にある世界第3位の資源を、なんで日本政府はみすみす放置しているのか。

理由はいろいろ挙げられていて、まず、地下深くにある地熱資源の調査精度が低くて開発リスクが高いと言われているのだが、そんなことでビビるとは、(かつての)技術立国の看板が泣く。温泉の源泉を掘り当てる掘削工事などはばんばんやっているのに。

 

もはや技術がないなら、既に成功させている国から学べばいい。

アイスランドでは、電力をほぼ再生可能エネルギーで賄っており、そのうち約30%が地熱発電だそうだ。

日本の375分の1ほどの人口しかいない小国だからできるんだという意見もあるかもだが、GDPを比較すれば、日本はアイスランドの約210倍の額になる。GDP世界第3位の国が金のことでもビビるとは、情けなさすぎやしないか。

https://www.env.go.jp/earth/report/h26-08/05.pdf

 

さらに、よく耳にするのが、有効な地熱資源があるのは風光明媚な火山の近くなので、その約8割が国立公園内の特別保護地域・特別地域にあるため開発が許可されない、ということ。

このコロナ禍においても痛切に感じることだが、なんで日本政府は、国民の合意でどうにでもなる法律を足かせにしたがるのだろう。

天然資源は、いくら国土をくまなく探しても、ないものはない、出ないものは出ない。これは自然任せでどうにもならないこと。

けれども、人間の側の問題ならば、話し合えば、いくらでも解決の糸口は見つかるはず。

 

日本は、他の多くの国が願っても手に入れられない莫大な地熱資源を自然から与えられている。なのにそれを、ちっぽけな人間が作ったちっぽけな法律のせいで手が付けられないと言う。意味が分からないし、脱炭素への本気度が感じられない。

まさか、すべての週末ナチュラリストの夢を壊さないでおこう、なんてことではあるまいし。

 

開発による自然破壊云々という話になると、昭和人間からすれば、何を今さら、という気がしないでもない。

最も歴史ある再生可能エネルギー利用、水力発電所の開発において、日本は、各地の山村をダム湖の底に沈めてきた。

週末ナチュラリストの安息の権利どころではない。生まれた土地に住む権利すら奪ってきたという歴史を、日本はたどってきたのだ。おそらく何百もの集落の何万もの人たちに対して。

 

景観のほうでは、瀬戸内海国立公園の一角である鳴門の渦潮の真上に平気で大橋を渡すし、各地の山岳景勝地では、スカイライン道路を貫くために山腹を削って、谷底から山頂まで一続きだった森林を分断し、渓流に岩石や土砂を落とし、生態系を撹乱してしまった。

 

そういう歴史があるからこそ、せめて今残っている自然だけでも死守しなければという気持ちは、私にもある。

けれども、この地球大変動の時代に、何を起こすべきか、そのためには何を残し何を犠牲にするのか…深く考えて線引きしなければならない時が来るのではないかと想像してしまうのだ。

自然には手を付けない、環境に優しい技術に転換したい、現在の文化的生活水準は維持したい等々、すべての欲求を満たすことは不可能だろう。

 

要は、日本の、世界の、どんな未来を望むのか、描くのかである。

グローバルに環境を改善するためには、ミクロな自然の消失には目をつぶらなければならない場面が出てくるかもしれない。

もちろん、絶滅の恐れのある生物の生息地などは開発候補地から外した上で、さらに強い特別保護地域とすべきだが、エネルギー転換の緊急度次第では、県レベルの絶滅危惧種などは、特別保護扱いを望めないかもしれない。

 

例えば、A県では希少な種でもB県にはうじゃうじゃいるとなったら、県境は取っ払って、A県の山は開発候補地、B県の山は特別保護地域、とされるかもしれない。

日本地図を俯瞰するマクロな視点で判断して、一人一人の学者や活動家の想いに一つ一つ応えることはできないという切迫した状況に、この先なりうるかも、という仮定と覚悟の話である。

渦潮を跨ぐ大橋の景観をよしとするならば、発電事業においても、利便性と原生保護の兼ね合いは、どこかで妥協点を決断しなければならないのかもしれない。

 

新しいこと思い切ったことができないということにかけては、今の日本は世界のトップクラスだと思う。この全世界的なコロナ禍の戦いにおいても、日本は何のイノベーションも起こせなかった。海外で作られたワクチンや治療薬を買うだけ。

あらゆる分野において、日本発の新製品が世界を救うような場面を目にすることは、もう生きている間は無理なのかもしれない。

 

このコロナ禍で痛感させられたが、日本的民主主義というものは、一方では自由奔放主義で、一方では、あらゆる組織をがんじがらめにして新しいことが何一つできないような仕組みになっているかのようで、両極端が混在しているように見えてしまう。

なんせ、中国では一週間ほどで完成させたコロナ専用病院が、一年経ってもまだできないでいるのだから。

 

もう一つ、やはり気になるのは、原子力の呪縛ということ。

原子力によって敗戦した日本は、原子力によって再び国を興して世界を制するんだというような終戦後の怨念が、いまだに政界には蠢いているようなムードを感じてしまう。

 

広大な海を利用しないのも、地熱発電に消極的なのも、すべては原発の再興を正当化するためではなかろうかと。安定的に電力を供給できるクリーンエネルギーは、やっぱり原子力しかないでしょ、みたいな。

 

原子力の呪縛、夢の原発神話からいまだ脱却できないでいるかのような日本のエネルギー政策。

世界を変えるイノベーションを連発していた頃の日本。過信もあっただろうが、今となっては懐かしい。

昭和は遠くなりにけり…

2021年8月16日月曜日

第三次世界大戦 -敵は新型コロナウィルス-、その10. コロナと異常気象、綱渡りのオリンピック ―World War Ⅲ, against COVID-19, part 10. Olympic on a tightrope with COVID-19 & abnormal weather

オリンピックが終わり、今度は、我々一般市民のコロナとの闘いが正念場を迎えている。

 

科学的な理論に基づいて制御した行動でどれぐらい日常生活が維持できるかの指標として山梨モデルには注目していたが、その山梨県でさえ感染者数が増えているのを見て、とうとう別の次元に突入したのかと感じずにはいられなくなった。

やはり、デルタ株は別物だと思ったほうがいい。アジア人が持っているかもと言われていた謎のファクターXも、デルタ以降の株には効かないのかも。

 

まだ観ておられなければネタバレ注意だが、映画「シン・ゴジラ」で言えば、陸に上がったアナゴの化け物のようなゴジラ直前の形態(アナゴジラ?)が新型コロナの従来株だとすれば、デルタ株になって、ここからやっと本ゴジラの始まり、ということかもしれない。今がシンの第1波なのかも。

昭和人間としては、あれをゴジラ映画とは認めていないが。

 

現在の爆発状態について、首相は、「デルタ株の感染力は従来の1.5倍と聞いてましたが、それ以上だったということではないでしょうか」と、他人事のように言ってたが、私は、いや、現状は予想通り、むしろ、まだ数字以下じゃないの、と思っている。

 

やはりこの、1.◯◯倍という伝え方が問題で、例えば1.5倍なら、10万人が15万人にということではなくて、1.5倍での指数関数的(ねずみ算式)増え方というものを理解しなければならない。

http://onishingo.blogspot.com/2021/07/8-world-war-against-covid-19-part-8.html

 

今はまさに、短期間での変異を繰り返すウィルスと、ワクチンや治療薬を改良していく人類とのせめぎ合いの真っ只中で、劣勢になったほうが徐々に淘汰されていくのだろう。

もはや日本の医術に勝算はなさそうで、人類の存亡は欧米の製薬会社の健闘にかかっている。日本はそれを待って買うという寸法。

 

ウィルス変異vsワクチン改良の優劣がほぼほぼ決するまでは、むやみに新型コロナの格下げを急ぐのはどうかと思う。

新型コロナを、どうしても「ただの風邪」としたい人たちが今でもいるようだが、国語の分類上は風邪の類であることなどは分かりきっている。問題なのは、“ただの”と言える代物かどうかということ。

http://onishingo.blogspot.com/2020/09/3-world-war-against-covid-19-part-3.html

 

例えば、ただの風邪論者が引き合いに出す風邪の代表格、インフルエンザによる死者は、最近では最も多かった2018年に3,325人亡くなられている。

https://www.lab.toho-u.ac.jp/nurs/socio_epidemiology/blog/dqmvu90000000d2i.html

それに対し、新型コロナは、2020213日に国内初の死者が出て以来、2020年は3,414人亡くなられており、流行した年のインフルエンザ被害とほぼ同じである。

https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_15828.html

ただの風邪論者からは、それ見たことかと言われそうだが、この間、インフルエンザの死者数がどうだったか?

2020年の統計はまだ見つからないのだが、もし半減していたとしたら、全国民的なマスクの励行や三密回避などの感染対策が不十分だった2018年の生活様式だったなら、新型コロナは倍増していた、三分の一だったなら三倍になっていた、と逆算するのが合理的だろう。

感染力や毒性の強弱ではなくウィルス干渉により、新型コロナが蔓延していたからインフルエンザの入り込む余地がなかったのだという説も有力だが、それはそれで怖く、やはり“ただ物”ではない。

実際、2021年は、ワクチンと新しい治療薬による武装が始まっているにもかかわらず、死者数は減るどころか、まだ4ヶ月も残した現時点で既に約12,000人も亡くなられている。

優劣の振り子で言えば、ウィルスの変異が優勢に立ち医療が劣勢に置かれているわけだ、少なくとも日本においては。

なのに、格下げなどして大丈夫なの?

 

それでもまだ、死者が一億人を超えてたと言われる最も被害が大きかったインフルエンザ、通称スペイン風邪を引き合いに出し、それに比べれば新型コロナなど、ただの風邪もいいとこだ、という意見もおありかもしれないが、それは、現時点から過去の一点だけを捉えるような見方であって、歴史は、点ではなく線で総括すべきだろう。

インフルエンザが人類にとってただの風邪になるまでに何年かかったことか。その変遷を、この一、二年で求めるには無理がある。

スペイン風邪の時代は、インフルエンザウィルスに対抗できない人々は淘汰され、克服できた人たちだけの遺伝子が残って現代人のマジョリティーに至っているが、現在は、基礎疾患のある人も高齢者も救える命は全部救うという時代。

つまり、適者生存から弱者共存になった今日では、おそらく、新型コロナが人類にとって「ただの風邪」になるには、今の子どものそのまた子どもの世代ぐらいまで待たされるかもしれない。

そこに至るまでの人類は、自然淘汰にあらがうのであれば、製薬会社の健闘を祈り医療に守ってもらうしかない。

 

同一種でありながら進化と言ってもいいような大きな変異に対抗するには、同じことを何度繰り返しても光明は見えてこないだろう。

ワクチンで先を行っているイギリスなどでは、あえてノーマスクで三密オーケーのライブイベントを社会実験としてやったりしているが、日本だとすぐに、それでもし感染者が増えたら誰が責任を取るのかとなって、たぶん、どの政治家も腹をくくれず、とてもじゃないけど実施できないだろう。

そして、相変わらず、三密回避、飲食店云々という当たり障りのないお願いを繰り返す。

できることは何か、できないことは何か、ウィルスの実態を究明しようという気概が感じられず、欧米からの報告待ちを決め込んでいるかのようだ。

格下げするなら、もっと新型コロナの実態を解明して制御できるほどに医療体制を整えてからにしてもらえませんでしょうか。医療が間に合わないから格下げするというのは、本末転倒death!

 

前便、前々便に貼り付けた私の案は、科学的政治経済的にどこまで実現可能かは要検証だが、いつまで経っても壁を越えようとしないグズグズの政治家に、イライラが募って挑発したくって抑えきれない一市民からの一喝だと受け取ってもらいたい。

 

コロナ禍のオリンピックに関しては、以前も今も選手には何の罪もないと思っているので、「お疲れ様でした。人類の能力のすごさを見せてくれて、ありがとう」とお伝えし、ウィルス陽性となって出場できなかった選手に対しては、「本当にお気の毒でした」としか、かける言葉が見つからない。

選手だけではない。すばらしい試合の数々に感動をもらった人々が大勢いる一方で、本人や家族が感染してオリンピック観戦どころではなかった、という人たちも少なからずいたことは間違いない。お医者さんや看護師さんももちろん。

総じて、オリンピックをやるのはこの時期でよかったのか?という疑問は残ったままである。

 

オリンピックについても新型コロナと同じで、政府はお願いばかりに終始していた。

例えば、ロード競技の会場周辺の住民に対しては、沿道での声援はなるべく控えてくださいと。

せっかく我が町をマラソンコースが横切っているのに、せがむ我が子を説得して自宅でテレビ観戦させた人も、一生に一度のレースを直に見せようと沿道に連れて行ってウィルスに感染させてしまった人も、どっちにしても一生涯後悔することだろう。

 

なんですべてを国民に決めさせるかなあ。とにかく政府は国民に委ねすぎ。

政府から国民、親から子、教師から生徒と、上から下への「自分で判断しなさい、信じてるから」という姿勢は、果たして“自主性の尊重”というような高貴なものなのだろうか、導く立場にある責任を放棄した“放任”ではないのか。

上から決めてあげることも、場合によっては一つの優しさなのかもしれませんよ。

 

今回のオリンピックは、本当に綱渡りだったと思う。

しょっぱなからして、もし開会式当日が雨だったら、どうなっていたのだろう。

ゲリラ豪雨、台風の直撃、秋雨前線の停滞、どれにぶち当たってもおかしくなかった。ほんのタッチの差、ニアミスで事なきを得たに過ぎない。

雨天決行が前提の競技は、元々欧米のシトシト雨ぐらいが基準だったはずで、昨今頻発する豪雨(特にアジアの)は想定してなかったと思う。

順延は織り込み済みの高校野球でも、今、居座っている秋雨前線のような長雨になると、どこまで持ちこたえられることやら。

 

豪雨の中では、どんな高性能のマイクでも人の声だけを拾うことなどできないだろうし、トップで入場するギリシャ選手団だと、最後尾の日本が入場するまで二時間も雨の中で突っ立たされることになる。さらに、紋切型の演説を数十分間も聞かせ、滝のような水カーテン越しに数時間もパフォーマンスを鑑賞させるつもりだったのだろうか。ハードロックフェスじゃあるまいし。

 

確か、最初のコンペで選ばれた新国立競技場のデザインは、可動式の屋根付きではなかっただろうか。

この大気候変動の時代に入ってしまった今からは、順延を想定しない巨大イベントの会場としては、屋根付きの場を準備するほうが無難だ。アジアではなおさら。

そもそも、予算オーバーを理由にコンペの結果を反故にするというのはどうなのか。この限度額以内でデザインの改変をお願いするというなら分かるが、不正が発覚したわけでもないのに受賞そのものを取り消すなんて、クリエーターとしてはたまったもんじゃない、無茶苦茶だ。

 

今回、荒天が吉と出たのは、サーフィンぐらいのものだった。

世界のトップサーファーたちにトップレベルの技を競っていただくには、人を包み込む波のチューブもできないような夏の日本の海岸では申し訳ないと危惧していたが、台風接近のお陰でそれなりの波が立ち、大技を出すこともできていた。濁り水だけは気の毒だったが。

リスクの中でも、台風はまだ、かなり高い精度で被害を予測できるほうだ。

 

気温のほうでも、都心が今季初の猛暑日に見舞われたのは、閉会式の二日後のことだった。

もう、いくら夏季オリンピックと銘打ってても、バカ正直に開催地の真夏にする必要はない。

日本なら、やはり前回と同じ秋がいいだろうし、ミャンマーやタイやインドなどの熱帯モンスーン帯なら、45月の酷暑は避けなければならない。

 

新型コロナと異常気象に翻弄される時代は、しばらく続くだろう。

もはや新型コロナは身近に存在するという証拠として、著名人の感染のニュースを聞く頻度が増えてきた。

ゴルフの松山選手やバドミントンの桃田選手のように、大きな大会で優勝すると、いろんな場所に呼ばれることとなり、どうしても人と接する機会が増え、本人がいくら気を付けてても感染の機会は激増するだろう。

お二人とも出場には間に合い、感染を言い訳にしなかったのは、さすがのスポーツマンシップだったが、プレーに影響がなかったとは言い切れないだろう。

 

感染された芸能人の方々も、「無症状ってやつで体調に問題はない」と強調しがちだが、このコロナに関しては、無理に健康をアピールするのは、どうかと思う。

あおるのはよくないが、もし、後遺症が残っているのなら、今はまだ貴重な体験者として、その症状や辛さを正直に語ってくれたほうが、インフルエンサーとしての大きな社会貢献になるはずだ。

後遺症に苦しむ方々が大勢いるにもかかわらず、完全復帰できたケースのほうがより注目されるようになると、ほら、こんなにふつうになってるじゃないか、やっぱりワクチンも三密回避も不要なんだ、みたいな誤解に繋がり、ひいては医療体制の逼迫に繋がりかねない。

あっ、そうだ!著名人絡みということでは、今回のオリンピックの関連で最も衝撃だった出来事を忘れるわけにはいかない。語らないわけにはいかない。

それは、今回と言うより、生まれてこのかた見た中で、三本の指に入るであろう不愉快で気持ち悪いシーンだった。

名古屋市長の非常識で無礼極まりない暴挙、メダルかじりだ。

昔、よく時代劇で小判をかじるシーンを見たが、純金なら噛んだぐらいでは変形しないということで、小判や金貨が本物か偽物かを判断する民間の方法として、以前から実際にあったはずだ。

つまり、(純金ではないものの)紛れもなく本物の金メダルを取ったんだよと、かじってもいいほど、もう自分のものになったんだよという、本人だけに許されたほほえましくておちゃめなお決まりのポーズということで、メダルかじりのパフォーマンスは広まっていったと思う。

それ以外では、そもそも食べ物以外で口に入れてもいいものといえば、歯ブラシと、人によっては吹奏楽器やマウスピースや体温計と幼少期のおしゃぶりぐらいのものだ。

けれどもこの件は、このご時世云々とか感染のリスク云々とか、そういう次元の話はしなくていい。それ以前の問題だ。

いくら多様性の時代とか個性の尊重とか言われても、どうしても価値観を共有できない者はおり、無理に迎合するつもりもない。

かの市長は、和やかな雰囲気だったからとか言い訳をしていたが、そんなことを言う時点で、私とは価値観の基準が違う。

他人の持ち物は、触るにしてもひと声かけて許しを得るべき。それが私の中での基準だ。

世の中には、例えば他人の手紙や葉書やメールを無断で見たり、人から借りた物を返さずに自分の物にしたりするような、私とは相容れない価値観の持ち主が歴然といるが、あの市長が首にかけられたメダルをすっと口に運んだシーンを見て、この人間の思考や価値観も絶対に相容れないと確信した。

被害を受けた後藤選手こそは、常識も礼節も持ち空気も読める最高の大人だ。

それに対して、かの市長は非常識さでは最低ランクの人間。さもなければ、認知機能障害をチェックしたほうがいい。

ぜひ新しいメダルに交換してあげてほしい。それでも不幸中の幸いにしかならないし、こんなことで話題になるのは、後藤選手にとっては不本意だっただろうが。

さて、いよいよパラリンピックの開幕予定日が間近に迫っている。

そして日本は、新型コロナと異常気象の猛威の真っ只中にある。

絶対にやらなければならないものなんだという固定観念に意固地になることなく、何が一番いい選択なのか、ニュートラルな視点で冷静に判断してほしい。

千変万化する敵には、臨機応変に立ち向かわなければならないのだから。

間違っても、同じく四文字熟語である優柔不断にはなりませんように。

 

新型コロナウィルスで亡くなられたすべての皆様のご冥福をお祈りいたします。

2021年8月2日月曜日

第三次世界大戦 -敵は新型コロナウィルス-、その9. オリンピック開幕、これからやるべきことは… ―World War Ⅲ, against COVID-19, part 9. Olympic has kicked off. What should we do from now on?

メダルを賭けた選手たちの激闘を映し出す画面の上に、緊急事態宣言発出の速報テロップがかぶってくるなんという混沌の世界!

総理が全国民に向けて緊急事態を宣言している生中継の最中にも、裏番組では複数のチャンネルでオリンピックの中継をやっている…

伝えることがメディアの使命ではあろうが、報道番組や情報番組では、新型コロナ感染の危機的状況を伝えつつオリンピックでの日本のメダルラッシュも伝える、同じ番組の中で…

 

社会情勢を気にすることなく、与えられた条件の中で最高のプレーをしていただくことが何よりの社会貢献なんだからと、前便で選手にエールを送っていたのだが、いざ始まってみれば、やはり多くの人たちが感動をもらっているようだ。

どんな不幸な状況の中でも、スポーツや文化が人に幸せをもたらすものであることには間違いないのだから。

 

かと言って、陽性反応が出たがために出場資格を失った選手は少なからずいるし、特に海外からの選手は、空港での入国手続きからその後の滞在の規制でも大きな負担を強いられており、公平性からしても、やるべき時期は今ではなかったのではないかという想いは残る。

少なくとも、会場が日本人一国の観客でなく、一部を除いて無観客としたことは、公平性を保つ上では正解だったと思う。

 

総理をはじめオリンピック関係者は、いかに感染者ゼロで抑えるかの施策ばかりを強調していたが、それよりも、感染者が出た場合にどういう対処と手順にするのかを真っ先に決めておくことがリスクマネージメントの基礎であって、それを第一に示さなければ信用を得られないと、以前から私は言ってきたが、こんな場末のブログに反応してくれる関係者などいようはずもなく、本気でゼロリスクでやるようなつもりでプレイブックの改訂とかが進んでいるように見えた。

そして、案の定、開会式前に行われるサッカーの試合で南アフリカの選手の陽性が判明し、あっさりとゼロリスクは突破され、幻想だったと知らされた。

 

そこからだ。

◯◯の規定に従ってこうなりますよと即刻発表されるかと思いきや、懸念していた通りのあたふたぶりで、直前になって、試合開始6時間前の検査で陰性ならば試合に出られるという特別ルールが突如出てきた。

そういうのを事前に決めとかないと信用されないよと、あれほど言ってたのに…(誰も見てないか)。じゃあオレもマイルールでやるからねと人々がやりたい放題やり始めますよと。日本は自由奔放主義国家なのだから。

結局、開幕する前からゼロリスク神話はあっさり崩壊し、切り札としていたバブル方式は破れてしまったのだが、そもそもゼロなんてありえないと私は思っていたので、これまでのところは、まだマシなほう、機能しているほうだと思っている。

その結果、今はバブルの目的が、本来のからは逆転してしまっているということにお気付きだろうか。

 

現在、バブルの中にいるオリンピック関係者の感染率よりも、東京の市中の感染率のほうがはるかに高い。

そのバブル内での感染者の割合も、海外からの選手よりも日本人関係者のほうが多い。

オリンピック会場を抱える自治体の住民からのワクチンの優先接種はやってくれなかったものの、少なくともオリンピックのスタッフやボランティアや撮影クルーなどは全員接種しているものと思っているのだが…。まさか、接種していない関係者も混ざっているなんてことはないだろうに…。

とにかく、今の感染率を比較すると、バブルの中のほうが安全なのは確実で、つまり、バブルに閉じ込めることで外国人から都民への感染を防ぐという当初の目的から、東京の市中感染から海外からの選手などを守るためという目的に代わってしまっている、ということになる。

 

開幕してからここまでの流れを目撃してみて、これから日本人がどうすべきかが見えてきたような気がする。

まず、なんとしても達成しなければならないことは、多くのリスクを超えてはるばるやって来てくれた選手のみなさんを、日本でウィルスに感染させることなく無傷で母国に送り返す、ということ。

オリンピックを強行した日本が絶対にやってはならない最も恥ずべきことは、日本からウィルスを持ち帰らせるという事態。

 

さらに考えるべきは、数々の感動のシーンを見せてくれている選手に対する我々の姿勢。

黙って最高のプレーを見せてくれることこそがスポーツ選手の社会貢献だと思っているのに、選手たちが真っ先に口にするのは、こんな状況の中でもオリンピックを開催してくれたことへの感謝の気持ち。

なんで選手にそれを言わせるか、逆に申し訳なくて泣けてくる。

もし、選手に対して、感動をありがとうという気持ちがあるのならば、我々は、それをどう体現すべきか…

それは、決して、集まって祝杯を挙げて大騒ぎするということではないはず。

 

やるべきことは、この先、やっぱりあのオリンピックはすべきではなかったと言わせないようにすること、オリンピックのせいでこうなってしまったという悲惨な状況を作らないこと。

やっぱりオリンピックをやってよかったと、オリンピックを、選手を悪者にさせないためにはどうすればいいか…

それは、直後の感染爆発を防ぐこと、これに尽きる。

 

感染対策には行動変容とワクチンなどの医療戦略が要となってくるが、もはや緊急事態宣言に効果はなく、今のままでは国民の行動変容には期待できなくなっている。

こうなると、ワクチンのウィルス防衛力に頼るしかなさそうだが、若い世代が接種を嫌がる大きな根拠となっているデマが、政府の発表よりも信頼されているというのが致命的だ。

これまでのところ、オリンピックの開幕に合わせたかのように新型コロナの感染者数が最多記録を更新していくという絵に描いたような悪夢のシナリオになってきているが、やはり下心があるものは、神様が見逃さないのか。コロナに打ち勝った証しでと言いながら、肝心の打ち勝つ努力、ズバリ、この一年間のワクチンや治療薬の開発は、すべて外国任せだったのだから。

 

その、世界を救う医療的武器も作り出せない日本の政府に代わって盲信されているのがデマ、ということになるが、その中身を知らされると、あまりにもひどい。

ワクチンとともに体内にマイクロチップを打ち込まれるって、そんなの、世界最小のマイクロチップの大きさと注射針の内径を調べて比べてから判断すりゃええのに。ワクチンを打たれたマウスがすべて二年以内に死んだって聞いたら、マウスの寿命を調べてから判断すりゃええのに。そもそも、対新型コロナのワクチンの開発が始まってから、まだ一年ぐらいしか経ってないのに、二年という数字が出ている時点で、うさんくささを感じなきゃ。

ワクチンを打つか打たないかは個人の自由だが、こんな幼稚なレベルのデマで世の中が右往左往しているのかと思うと、これまた泣けてくる。

そして、感染防止の需要に見合ったワクチン供給対策として、ライセンス生産ではあるものの唯一国内で製造しているアストラゼネカ製がクローズアップされ始め、若年壮年に打っても大丈夫なのかなどと、今頃になって真剣な議論になっている。

そんな、いまだ日本人が疑問視している代物を、惜しげもなく?恥ずかしげもなく!台湾やベトナムへ日本政府は無償提供したのである、援助という名目で。

日本の海外援助は、と言うか日本人の援助マインドなのか、以前からそういうところはある。タダでやるんだから、みたいなおごりはないだろうか…

日本では使わなくなった中古の自動車や自転車や衣服などを「援助」という名目で海外に輸出する…実際、それで助かる人々も大勢いることは間違いないのだが、提供するのは使い古し着古しのものばかり。

日本国民が使えないと決めたものを流すのである。

どうしてももらい手がないので、もう着ることはないのでと、使い古しで大変申し訳ないのだけれどという気持ちと共に、本来こちらから頭を下げてもらっていただくべきことではないだろうか。

本当に贈る気持ちがあるのなら、なぜ新品ではないのか。企業PRの目的でブランドロゴのどでかいステッカーを貼ってでもいい。一見露骨のようだが、そのほうが、使わくなったものを提供するよりかは、本当はより真摯な行動なのではなかろうかと私は思っている。

日本で処理しきれないゴミを外国に輸出して処理させたり、きつい仕事や汚い仕事を任せるために外国人に来てもらったり…それで経済が回って、助かっている外国の人々も大勢いるとは言え、そういう態勢にあぐらをかいている国には、いずれ大きな報いが来るのではなかろうかと、いつも一抹の不安を感じている次第である。

 

デルタ株の後ろには、ワクチンがより効きづらいとされるラムダ株が控えていて、いずれ徐々に置き換わっていくだろうから、従来株対策を前提とした現在のワクチンは打っても意味がない、という理由で打ちたがらない人もいるようだが、私の個人的な意見では、それでも打っておいたほうがいいと思う。

これまで、黄熱病、狂犬病、破傷風などのワクチンを打ってきたが、所定の回数、例えば二回なりのワクチン接種をした後、かなり期間を空けてから次の一発を接種すると、予防効果が爆上がりすると医師に言われたことがある(爆…とは言わなかったが)。旨い出汁を取るための追い鰹ならぬ、追い打ちである。


日本はアテにならないが、欧米の製薬会社では、既に対デルタ用や対ラムダ用のワクチンの開発も進めているはずだ。

近い将来、ラムダ株が主流となって専用のワクチンができた際、まったくの一回目としてラムダ用ワクチンを打つのと、三回目の接種として追い打ちするのとでは、効果が全然違ってくるのではなかろうかと、素人ながら予測している。

あくまで、同じ新型コロナウィルスという種の中で起こっている変異なのだから、株のタイプが違うからと言って、まったく効果がなくなるということはないはず。


いずれにしても、この第5波の拡大を抑え込むのにはワクチンの供給は間に合いそうもないし、緊急事態宣言による行動変容も期待できそうもない。

そこで、集団免疫を獲得するまでの時間稼ぎの対策として、繰り返して恐縮だが、感染者ゼロリセットを目指すための私の愚案を再び紹介させていただきたい。

その前に、まずは政府は、対飲食店等への補償金については、正しく申請されている限りは、約束した額をまっとうに支払ってください。未払い分を精算してください。リセットの第一歩はそこから。

 

その後で、提案する約一ヶ月間のゼロリセット計画では、政府から支払うのは、国民全員一人あたりにつき十万円の食料確保用支援のみで、言わばサバイバル費。それ以上はビタ一文出さないし、受け取らないという人にも無理矢理にでももらってもらう。

それに加えて、全世帯への光熱費などの基礎控除と、期間中の家賃などの免税をセットにしての強めのホームステイというコンセプトだ。

以下に、その要点をまとめたファイルを再び掲載させていただきます。

全国一斉おうちキャンプ(仮)

 

これは、どんな対策なら実行可能かと模索して出てきた絵空事のようなイメージだが、緊急事態宣言以上ロックダウン以下でゼロリセットにするならば、官民全組織、全国民を跨いだ大胆な策を講じなきゃ何も変わらないんじゃないのというシグナルとして受け取ってほしい

いったん感染者数をゼロベースに戻せたなら、しばらくは、強力な水際対策とクラスターの囲い込みを中心に市中拡散を防げるのではなかろうかと思っている。

 

オリンピックが動き出したからには、引き続き、選ばれし選手の方々は、社会情勢や世間の声は気にすることなく、与えられた場で全力を尽くしてください。全参加者のみなさんを応援しております。

そして、選手のことを、希望を与えてくれた英雄にするのも感染を増やした悪党の一味にするのも我々次第。今度は国民が闘う番、オリンピックの後にウィルスにどう立ち向かうのかにかかっている。

 

新型コロナウィルスで亡くなられたすべての皆様のご冥福をお祈りいたします。

2021年7月16日金曜日

第三次世界大戦 -敵は新型コロナウィルス-、その8. オリンピックをやる資格 ―World War Ⅲ, against COVID-19, part 8. Qualification for holding the Olympic Games

ミャンマーでの新型コロナウィルス感染者数の推移
from Google service page


ミャンマーでは現在、新型コロナウィルス感染者数が急上昇している。

いまだ混乱している国状を考慮すれば、正確な統計が取れているとは思えず、現実には、もっと多くの人が感染し、犠牲になっているはずだ。

コロナ禍でのクーデターなんで災いに災いを重ねるかなあ。


不当な権力者を倒す切り札として、仕事を人質にする市民不服従運動(CDM)が行使され始めた頃から、いつかは、こういう厳しいコロナ禍が来るのではないかと懸念していた。

天職という言葉があるが、職人と呼ばれるような人たちは、世の中がどうあろうと仕事の手を止めない止めたくないというのが本音だろう。

職人とか仕事師とか、さらにエッセンシャルワーカーという人たちから仕事を奪うと世の中がどうなるか。

 

2月以降、統計上、感染者数が下げ止まっていたのは、各組織の混乱による統計の欠如だったのだろう。

その間、超過密状態でシュプレヒコールを繰り返すデモの日常化で、感染は伝播していただろうが、医療従事者のCDMにより適切なケアがされぬまま放置されていただろう。

それに加えて、ここに来て、インドやバングラデシュからのデルタ株の侵入。

 

感染力とか実効再生算数とかが増すということは、例えば1.5倍なら、単に100人が150人になるということではなくて、それがネズミ算式に伝播していくととんでもないことになってしまうということは以前にもご説明したが、今一度そこで上げた図をお見せしたい。

もし、デルタ株やラムダ株の怖さにピンと来ていない人が身近におられれば、どうぞシェアしてください。

1人の感染者から2人に伝染する場合と3人に伝染する場合の比較

このデルタ株の台頭下に、日本では、何が何でもやるんだと、開催ありきでオリンピックの準備が進んでいる。

一年前、「人類が新型コロナウィルスに打ち勝った証しとして」一年後に東京オリンピックを延期して開催すると、時の首相は宣言した。

その提示された条件に素直に従って、今、東京オリンピックをやる資格があるかと聞かれれば、私なら、答えは、きっぱりと「ない」。

理由は、心情も忖度も入る余地のないほど単純明快。人類はいや、「日本は」新型コロナウィルスに打ち勝っていない!から。

 

奇しくも大谷選手の活躍のお陰で、アメリカの日常のスポーツシーンを観る機会が俄然増えたが、あの超満員の会場の熱気はどうだ。それがもう一ヶ月以上経過しても、いまだに感染再爆発の兆候は見られない。

これがもし、アメリカが新型コロナウィルスに打ち勝った証しとしてアメリカでオリンピックをやる、となってたら、まったく異論はなかっただろう。

アメリカ人も中国人も人類には違いないので、「人類」が打ち勝ったことには間違いないでしょ、と言えなくもないが…

 

東京での開催の是非を考えるに当たって、最初に断っておきたいことは、出場選手のみなさんに対しては恨みもねたみもまったくなく、何の責任を問うつもりもないので、どうか選手のみなさんも、自分たちだけが特別な存在でいいのか?などとは思い悩まないでほしい。

選手のみなさんは、与えられた条件の中で全力を尽くして競技をして、その姿を通して我々に感動を与えてくれればそれでいい。

語りたい選手は語ってもらってもいいけど、社会への貢献を!などと考えるのは、引退後の長ーい余生の間にやっていただければいいので、短い現役時代には、四の五の言わずに最高のプレーを見せることこそが最大の社会貢献であると思ってほしい。今の大谷さん現象が、それを実証してくれている。

 

そもそも一流のアスリートは、どんな条件の中でもブレずにベストパフォーマンスを目指すはずで、選手のために観客を入れるとか、選手のために開催するとか、実行の是非に選手の存在を引き合いに出すのは、それこそ人質のようで、選手の人格や意思を軽んじた政治利用に見えてしまう。

特に、選手のモチベーションのために日本の観客だけでも入れるという案は、オリンピックが国際大会であるという意識に欠けてはいないだろうか。

外国同士の対戦ならいいとしても、日本対◯◯国の試合で、取り巻く観客が全員日本人という環境なら、モチベーションが上がるのはどっちの選手?ということだ。これを、フェアな会場と言えるだろうか。

 

比較的日本人は、敵味方の隔てなく応援するとは思うが、国際大会での観客の一国独占となると、そこと対戦する他国の選手にとっては超アウェー、前代未聞のハンディキャップマッチになりはしないだろうか。

過去には、モハメド・アリ対ジョージ・フォアマンの歴史的ボクシングタイトルマッチ、後に言うキンシャサの奇跡の会場が、取り巻く観客のほとんどがイスラム教徒だったようで、クリスチャンのフォアマンにとっては、精神的に孤立無援状態での闘いだっただろう。

そういう偏った環境の中で日本人選手のメダルラッシュを見ても、素直に喜べそうもない。

地元の利というのは付き物だとは言え、試合の公平性を保つという観点からは、外国からの観客を入れないとした時点で、日本人も含めて全試合無観客と決めてもよかったのではないか。

 

改めて、なぜ日本にオリンピックをやる資格がないのか。

どうだったらやる資格があったのかということを対比させながら検証してみたい。

私は、このコロナ禍を第三次世界大戦だと言った。そして、この戦争に限っては、武器は兵器ではなく医療なのだから、日本が勝者となるチャンスは大ありだと。

けれども、結局この大戦でも、戦勝国は、やっぱりアメリカ。

ほんと、アメリカとはせわしない国で、一時世界最多の犠牲者を出したのもアメリカならば、世界最速でワクチンを産み出したのも、結局はアメリカだった。

 

「新型コロナウィルスに打ち勝つ」ための武器は、第一にワクチンであり、次いで治療用特効薬であることは、誰にでも分かっていたこと。

そこでアメリカは、ワープスピード作戦と称してワクチンの開発に約100億ドル、1兆円超の予算を準備しているという昨年5月時点の記事を見たが、それに対し、日本では、コロナ対策にワクチン開発への500億円を含む835億円、という同年5月の記事があった。

桁が違う、と言うか、本気度が違うと言うべきか。

 

ワクチン開発レースで徐々に周回遅れになっていった日本は、感染者が少ないから治験ができないため、などと有事とは思えない悠長な言い訳をしていたが、もっと感染者が少なくなっていた中国は外国でどんどん治験をやってのけ、トップ集団の一員のまま最後まで走り抜けた。

日本も国際航空路は早々に再開したのに、その理由は、ビジネスマンの往来のためとかで、中国のようにコロナ戦争のために国際線を活用するというような知恵は、日本政府にはなかったのだろうか。

民主主義最大国家のアメリカも共産主義最大国家の中国も、共に危機を脱しているのに、自由奔放主義の日本は、いまだ出口を見つけられないでいる。

 

結果、トップ集団として、ほぼ同時にワクチンを産み出した国々、アメリカ、イギリス、ドイツ、ロシア、中国は、新型コロナウィルスから最初に人類を守った救世国として、この先ずっと称賛され、語り継がれることだろう。

残念ながら日本は、医療先進国という看板は幻想であったと世界に知らしめただけの結果となった。よっぽどのものを出さない限り、二番手は歴史には残らない。

 

もしも日本が世界最速でワクチンを誕生させ自国生産していたとしたら、どのような展開になっていただろうか。

まず、参加選手全員分のワクチンを事前に各国に送れただろう。

それが一番の防疫手段であることは明々白々なので、最初にそれをIOCに提案したのは、やはり中国だった。

それに対して日本の五輪担当相は、ワクチンの接種は各国の基準に従うべきことだと、中国は寝ぼけてんのと言わんばかりに平静に却下した。

後日、同じ提案がファイザー社から上がり、それには五輪相は、願ってもないお話と言わんばかりに称賛して受け入れた。

一方、国内では、もし現在のアメリカレベルだったとしたら、国民の約半数が二回のワクチン接種を終えており、今の大リーグのように有観客での開催となっただろう。

各国の選手にとっても、日本なら安心だからと臆せず来日でき、ワクチンを打っている者同士、市民との交流もできただろう。

現実には、ワクチンが普及していない日本はヤバいからという理由で出場を辞退する国や選手が出てきても、言い返せないような状況だ。

さらにワクチンの在庫にゆとりがあれば、外国人客に対して、ワクチン接種やPCR検査などの有料オプションをセットにした観戦ツアーだって組めたかもしれない。


もし、今年が北京オリンピックで来年が東京オリンピックだったとしたら、今の中国の医療戦力からして、これらすべてをやってのけたかもしれない。そして日本は、来年にシレッとオリンピックを開催して、恥をかかずにすんだかもしれない。

二度のワクチン接種を終えてスタンバっていたオリンピック観戦マニアの欧米人は、何をもたもたやってんだ日本!と、怒り心頭に達していることだろう。オレの連続観戦記録が途絶えるがと。

「人類が打ち勝った証しとして」という言葉は、勝つためのビジョンも工程表もないままなんとなくのイメージだけで発せられたのかもしれない。

SARS1号の自然消滅の前例などもあり、いくらなんでも一年も経てば何とかなっているだろうという正常性バイアスにかかったとしても、一般市民なら無理もないが、政府には、言ったからには実現させねばならぬと、威信をかけた闘いを展開してほしかった。

政権を交代してたとしても、責任追及と退任要求だけに情熱を注いでいたような政党では、やはり何もできなかっただろう。


結局、現実は、新たな会場の建設などで、そこに関係した業界は潤ったかもしれないが、巨大な利益をもたらすと目論んでいたインバウンドのバブルは膨らまず、チケットの売上げもほとんどゼロに近づき、日本にとって景気を上げる要素が何もないオリンピックとなってしまった。

それでもなお開催する意義がどこにあるのだろうか?

放映権を持つアメリカのテレビ局と、そこからの収入で成り立つIOCに損をさせないためだけの義務感と、日本はやれるんだ先進国なんだという世界各国へのアピール。もはや、恥をかくわけにはいかないという変なプライドだけがモチベーションになっているかのように思え、結局、何の恩恵も受けられない日本の企業や国民をなるべく怒らせずに赤字と感染を最小限に抑える、という方向性での開催に見える。

観戦者をゼロにして感染者をゼロにする…

もはや日本語までもが、呪われたオリンピックを暗示していたかのように感じてしまう。

 

一年間という延長期限を切ったのは、選手のモチベーションを維持する我慢の限界の考慮というのが大きな理由だっただろうが、ワクチンの接種が世界最下位レベルでもたついていた頃から、選手も含めて国じゅうが、今年は間に合わないかもしれないという雰囲気になってきていたように思う。

同時に、もう一年延ばせばフルベネフィットのフルスペックオリンピックができるかもしれない、という予想図も見え始めていた。

そこで再延期の選択肢も挙げれば、しかたがないという声も含めて、多くの人が受け入れたかもしれない。

にもかかわらず、なぜ、みすみすその巨大収入源を逃してしまうのか。日本にそんなゆとりはあるのか?

国民に確実に利益をもたらすための再延期案、それを推せなかった日本政府。国際組織に対して弱すぎやしないか。

この間、国際的に日本が貢献したことと言えば、台湾へのワクチンの無償供与があったが、送ったものは、日本で生産されたアストラゼネカ製のワクチンだった。

これは日本での公的な使用はまだ認められておらず、国民の間では副反応にも効果にも不安のある、行き場のないダブついたストックとも言えそうなものだ。

それでも日本に感謝してくれるとは。こんなヘタレな政府なのに台湾の人たちの礼節に、むしろ、こちらが頭を下げるべきだろう。

 

ここで原点に帰って、このコロナ禍が始まる以前に、東京でのオリンピック開催が決まったことに対して私がどう感じていたか、当時の心情を打ち明けておきたい。

今、世界には、日本政府が承認している国が合計196ヶ国ある。

もし、そのすべての国で四年に一度のペースで何かを持ち回るとしたら、一巡するのに784年かかることになる。

これまでオリンピックが開催された回数は、冬季を含めると51回で、ホストとなった国は22ヶ国。南米大陸では2016年に初めて開催され、アフリカ大陸ではまだ開催されていない。

つまり、参加国の多さとは裏腹に、開催国は、経済的にゆとりのある国の持ち回りで、事実上、先進国主体のイベントであるということだ。

まだ170超の国々がオリンピックを招聘できていない中、前回東京で開催されてから、わずか14回目、60年足らずでオリンピックが帰ってくる。同じ国ならまだしも、同じ都市に。

参加だけでなく開催においても、もっともっと国際的に発展したイベントになってほしいという希望から、これほど短期で東京で二度やるということには、私は疑問があった。

同じ町に住み続けている人が一生のうちに二度もオリンピックを目の当たりにするオリンピックに接したことのない何十億人の世界の人々を尻目に、あまりにも先進国優先主義が露骨なように感じてしまうのだ。

 

以前、オリンピックが始まるまでに何とか日本の新型コロナウィルス感染をゼロベースに戻せないものかと、飲食業界や観光業界の方々も含めて全員でサバイバルするための突拍子もない奇策を書かせていただいた。http://onishingo.blogspot.com/2021/04/7-world-war-against-covid-19-part-7.html

 

願いもむなしく、現実は、ゼロに近づくどころか、デルタ株の台頭により真逆の状況になりつつある。

オリンピックの開催中か終了後に、過去最大の第5波が来ることは、ほぼ見えてきている。今度は、その第5波の流行からワクチンの接種が大多数の国民に行き渡るまでの間、どうやって犠牲者を抑えて凌ぐかということで、再び、かの絵空事を以下に紹介したい。

愚案であることは承知の上だが、とにかく、これまでのやり方を踏襲するだけではデルタ株の制圧は難しいだろうというメッセージだけは発しておきたいということで。

責任追及と不満の羅列だけの人間にはなりたくないから。

全国一斉おうちキャンプ(仮)

今回の東京オリンピックは、IOC会長が言う通り、歴史的大会となって子々孫々まで語り継がれることだろう。史上最も開催国の国民に歓迎されなかったオリンピックとして。

 

新型コロナウィルスで亡くなられたすべて皆様のご冥福をお祈りいたします。

2021年4月22日木曜日

ランボーよりジョンレノン ―John Lennon rather than Rambo


民主化は大切だが、命より大切なものはない。

 

大変僭越でおこがましいのですが、今回は、うちの家族の話をさせてもらえますでしょうか。ほんの五分ほどお付き合いください。

 

私の父は、昭和3年(1928年)12月生まれで、昭和20年(1945年)815日の終戦時には16歳だったため、出征の義務のなかった世代だった。

昔は父の郷里の村にも映画館があり、戦時中は、メインの映画を上映する前に、大本営発表の短いニュース映画が流れていたそうである。

そこでは、軍艦マーチのBGMに乗って名だたる軍艦や戦闘機が映し出され、海外各地での戦果が小気味よく大々的に報じられていて、父などは、メインの映画以上に、そっちのニュース映画を楽しみにし、興奮していたそうである。

やがて、血の気が多めの父は、自らの手で敵機敵艦を撃墜撃沈したくなってきて、しだいに居ても立ってもいられなくなってきた。

そして、徴兵を待ちきれなくなった父は、とうとう「わしは志願して戦争に行く」と言いだし、誰彼構わず触れ回っていった。

それに対する周りの反応は、「えらいのう」「志願するんじゃとなあ」と賛辞の嵐で、血の気の多さに加えて、乗せられやすく乗りやすい父は、ためらうことなく志願兵の受験へと突き進んでいった。

絵に描いたような、いわゆる軍国少年の誕生で、大本営のトラップに見事にはまったわけだ。

とにかく最前線で撃ちたい父の第一志望は航空兵だったが、それには受からず、本人にとっては不本意ながら海軍の少年電信兵に合格し、念願の出征を果たした。

 

生前の父が、たまにこのような戦時中の話をするのは、たいてい酒が入った時だったが、一度だけ、ポツンと漏らした忘れられない一言がある。

「引くに引けんなってのう」

大本営に感化された父のアナウンス効果は凄まじく、よく知らぬ大人からも声をかけられ、「あんたじゃろ、志願するんは」と激励されていたそうである。

先の一言を漏らした時、父は笑っていたが、熱血軍国少年でも、その心の片隅には、救いを求めたい感情も、ちょっぴりは潜んでいたのかもしれない。

誰も「やめとけ」などとは口が裂けても言えない空気が、日本中を覆っていたのだろう。

 

自分が何かと刺し違える覚悟を決めて突撃して憤死するのは自分の勝手。

けれども、よその子の出征を拍手と万歳で見送るような大人にはなりたくない。

 

ちなみに父は三男で、私の叔父にあたる次男は、地域の相撲大会で優勝するほどのガタイと腕っぷしの持ち主だったが、鉄工職人として戦闘機や軍艦の製造に従事していたため徴兵はされず、戦後、鉄工所の社長となった。

長男は、年齢による徴兵で陸軍の歩兵となり、ビルマに赴いてインパール作戦に参加した。

生きていれば私の叔父になるところだったが、遺灰すら帰ってこなかったそうだ。

母にも兄が一人いて、陸軍航空隊の曹長にまでなったが、ニューギニアでマラリアに罹り、帰国後、病床で戦死した。

 

どの国の政府も殺傷を止めることができないその代償を、若者の命で払わせてはいけない。もう、たくさんだ。