2020年4月24日金曜日

ヤンゴン大木録 1. –身近な樹木のキ録&モク録– ―Common Trees in Yangon 1.

このプチシリーズでは、ヤンゴンの道端や庭などでよく見られる樹木を不定期で紹介していきます。
This is the irregular series to introduce common trees what can be seen at roadsides, gardens, etc. in Yangon.
May

その1.
・Botanical name [学名]Pterocarpus indicus
・Common name [通称]:パダウ、インドカリン、インドシタン、Narra, Amboyna, etc.
・Burmese namePan-padauk(パンパダウ)
・戸籍:外来(自生地:主にインド) / IDexotic (origin in India)
May

・コツ&コネタ / Tip & Topic
乾期終盤の土砂降りのニ、三日後に一斉に開花し、その日の夕方から散り始める。
その後も勢いのある木は、日照り続きの後の土砂降りに反応して、6月頃までに数回開花する。
May

It blooms after a few days from the heavy rain around the final stage of the dry season, then, starts falling in the evening on the same day.
Vigorous trees can bloom a few times after each heavy rain after a pack of sunny days till June.
May

この、ミャンマー在留日本人にも親しまれている街路樹の代表格「パダウ」は、ほとんどがインドからの移入種。
家具や調度品に使うパダウ材になる木は、ミャンマーの天然林に自生する別種(Pterocarpus macricarpus)で、木のパダウ(Thit-padauk,ビルマカリン)と呼ばれる。
野生のビルマカリン
Wild Pterocarpus macricarpus, Feb.Alaungdaw Kathapa NP, Sagaing Reg.

Padauk trees which are planted in urban areas are mostly exotic species from India.
On the other hand, Burma Padauks wood furniture and woodwork are made of other species, Pterocarpus macricarpus (Thit-padauk) which natively grows in Myanmar natural forest.
ビルマカリンの実
Fruits of Pterocarpus macricarpus, Jun., Hmawbi Tsp., Yangon Reg.

2020年4月7日火曜日

第三次世界大戦 –敵は新型コロナウィルス– ―World War Ⅲ, against COVID-19

about 22pm on 21st Mar. 2020 at Donmueang International Airport, Bangkok, Thailand

人生の終盤に差しかかった現在、活動の中心は依然としてミャンマーで、もう他の国では潰しがきかない心身になってしまったが、保険の有効期間や住宅などの関係で、ある日数限度を超えないうちに出国し、しばらく日本の自宅でも過ごすようにしている。

この時期、依頼を受けている仕事の多くは年度内にいったん終了しているし、ミャンマー暦の正月がある4月は長期連休があり、逆に日本では自然関連のイベントが多くなる季節なので、春はたいてい日本にいる。

このような近未来がまだ予測できてなかった2月、私は、3月下旬帰国のチケットを買っていた。

一日一便のヤンゴン-成田直行便は、懐事情から使うことはめったになく、乗継便を使うことが多いのだが、日本やミャンマーで入手困難なものを調達したり友人に会ったりするために、たまにタイのバンコクに途中下車して数日過ごすことがある。

今回はそのパターンで、成田行きに乗るためにバンコク・ドンムアン空港に向かったのは、321日の夜遅くだった。

その夜、22:50から翌朝7:50までに予定されていた40便のうち、運行が予定されているのは3便のみだったが、たまたまこのうちの1便のチケットを買っていた。それまで一度も買ったことも買おうとしたこともなかった便なのだが、なぜか買っていた。213日のことだった。

国と国との往来が遮断され、各国で生産活動が落ち込み、世界の至るところで罪のない多くの人たちの命が奪われていく
これは戦争だ、第三次世界大戦はこういう形で来たかと、それまで見たこともない異様な電光掲示板のスケジュール表を見ながら、私は、ひしひしと思いを新たにした。

この非常事態をどこで迎えるか。
私は、日本かミャンマーならどちらでもいい、要領の得ない第三国にはいたくない、と決意していた。
最終的に私が乗った便も翌日からは運休となり、かくして私の運命のサイコロは、たまたま愛媛に転がった。
とにかく今は、その場にとどまれる状況なら、運命に選ばれたその地でじっと臥薪嘗胆しておくことが、一番の社会貢献だろうと思っている。

私が移動した時点では、ミャンマーでは感染者ゼロ、タイでは三桁の半ば、日本では、停泊中のクルーズ船を除外したり検査を重視しない対応策を推し進めていたにもかかわらず、四桁になっていたと思う。
その数日間に、この三国を渡り歩いたことは、本当に貴重な経験だった。

時計の針を巻き戻し、まずは3月前半のこと。
私は電波も電気も届かない森の奥に長くいて、ヤンゴンに帰ってきてからも、まだ感染者が出ていなかったためか、新型コロナウィルスは、まだまだ遠い異国の出来事のように思えた。
その緩んだ心を一気に締めてくれたのが、帰省の途上で会おうと思っていた友人たちだった。

まず、関東在住の友人は、帰国者が感染源になる可能性を知らせてくれた。
考えてみれば、感染者ゼロのミャンマーからの出国とは言え、人種の交差点のような国際空港に数時間滞在し、見ず知らずの多国籍の人たちに前後左右を取り囲まれた密閉空間で7時間缶詰になって到着するのである。感染しやすい条件は整っている。

バンコク在住の友人は、マスクをしてなければタイには入国させてもらえないかもしれないと知らせてくれた。
にわかには信じがたかったが、たまたまマスクは持っていた。
ミャンマーの田舎に行くと、トラックやトラクターや窓のない車などで土の道を長時間走ることがあるため、日本から訪ねてきた人が、たとえ全身が安倍川餅になったとしても呼吸器官だけは守れるよう、常にマスクは買い置きしていたのだった。

320日、出国の日。
ヤンゴン空港は、便数減で混雑はなく、いつもよりすいすい流れる出国手続きに気分は上々だ。

出国ロビーのフードコートもがらがら、一割も席が埋まっていない状態で、それまでは看板だけチラ見して一度も入ったことのなかったバーガーキングを初めて食べてみた。まだ市内にはない国際空港限定の出店で、出国スタンプを押された者のみが味わえるレアフードだ。

開店したばかりの友だちの土産物屋でも、5分以上立ち話をしてもじゃまにならないほど、客足はほとんどなかった。
ご祝儀代りに買った十ドル分の土産を携え、いよいよ搭乗ゲートへ。 
乗り込んでみると、噂に聞いていた通り、客室乗務員は全員マスク着用で、客室は前方の半分ぐらいを使っていたが、それでも着席間隔は空いていて、搭乗率は二割もないように見えた。
飛行機は順調に飛行し、予定どおりの75分ほどで、バンコク・ドンムアン空港に着陸。パイロットに感謝!

ここで空気は一変した。
世界の流れを、やっと肌で感じることができた。

まず、検疫のセクションに誘導され、額で検温され、新たに作られた問診票への記入を求められた。
私の場合、直近の二週間、まだ感染者のいなかったミャンマーにいて、パスポートのスタンプでもそれが証明されていたために、難なくイミグレーションに進めた。

手荷物の受取りもすいすいで、いつも長い行列ができているタクシー整理券のスタンドも待ち時間ゼロだったが、まずは階違いの出国ロビーに向かい、二日後に乗る予定の便のカウンターに行ってみた。

地上オペレーターにオンラインで調べてもらったところ、現時点では飛ぶことになっている、という微妙で神妙な返答で、ギリギリのところに来ているという状況が伝わってきた。

バンコク市街地のホテルに泊まり、雑居ビル、金融機関、ショッピングモール、コンドミニアムなどを巡った二日間だったが、入口で検温され、手を消毒させられること5回以上。否応なしに緊迫感が高まってきた。

今回だけは、バンコク名物の大渋滞にはまることもなく、タクシーは、すいすいとドンムアン空港出国ターミナルへ。
その時間にオープンしていたのは我々の便のカウンターのみで、搭乗手続きに10分以上の渋滞ができていた。

機内に乗り込んでみると、やはり、客室乗務員はマスク着用で、搭乗率は8割を越えているように見えたが、特に危機意識の高いタイ人の乗客は、ほとんどがマスクをしていた。
機内サービスを控える代りに、各自の座席には、予めミネラルウォーター一本と菓子パン一個が置かれていた。5時間以上の道中には、まさに武士の情け。
そして、さらに感染の進んでいる日本に向けて離陸。

322日。
うつらうつらの数時間眩しい朝日を浴びながら、機体は無事、成田空港に着陸。再びパイロットに感謝!
二ヶ月半ぶりの日本列島に着くには着いたが、私も地元にいる兄弟も、一時間や二時間で空港から出られるとは思っていなかった。
こっちとしても、不平を言うつもりなど毛頭なく、むしろ、徹底的に検査してくださいぐらいの気持ちである。

いつもよりスムーズに、最初の関所、検疫ゲートへ。
いつものサーモグラフィーカメラがこちらを見ている。もともと発熱はないので、ノンストップで通過。
その先は入国審査カウンターまでのがらんとした廊下が続くのみ。あれっ?

以前から私は賛成しかねていた入国スタンプ省略システムは、いくらなんでも、世界のこの情勢の中では一時取りやめているだろうと思いきや、継続中のままだった。
次回の渡航を考えたなら、感染国への入国スタンプなどパスポートに残したいはずがない。
けど、今だからこそなおさら、私は希望して日本への入国スタンプをバンッ!と押してもらった。
このスタンプ省略システムには、いずれ、システムを共有しない国からクレームがつくだろう。
やはり、すべてのパスポート所有者のすべての渡航履歴は、アナログで(紙上で)見えるようにしておかないと。防疫の観点からも防犯の観点からも。

とにかくあっさりと抜けてしまった。こんなんでいいの?
結局、書かされたのは、機内で配られたいつもの税関申告書のみで、パスポートをペラッと見てくれたのは税関の検査官のみ。

どこの国から帰国したか、どこの国に滞在していたかは、問診表どころか、聞き取りも押印ページを閲覧されるセクションもなかった。
空港で働いている方々は、ただ上からの指示に従って粛々と業務をこなしているのであって、政府の方針がそうなのだから、あらがいようがない。

そして、二泊三日の東京では、量販店でも食べ物屋でもオフィスビルでも、検温も手洗いも一度も求められることはなかった。
知らずに素通りしようものなら追いかけてでも連れ戻されていたバンコクとの差。この自信はなんなんだろう

将来どのような結果が出るにしても、両国ともに爆発を警戒していたその時期、人智を尽くしていたのは間違いなくタイ政府のほうだった。

総じて、タイの水際対策、感染防止策は厳重で本気、日本の水際対策、感染防止策はゆるゆる、日本は安全ですよーのアピールが露骨。そう感じずにはいられなかった。

9年前の福島では、原発施設を守ろうとして初動を誤り、今回は、オリンピックを死守しようとして初動を誤っている。

私が潜ってきた環境を今思い返すと、感染したかしなかったかは、ほんの紙一重。マスク一枚が生死を分けていたかもしれない。友人たちの事前の一言が、私を守ってくれていたのだ。

いずれ引導を渡されれば国のトップも変わるだろうと思っていたオリンピックの延期が決定したのは、乗車率二割程度の夜行バスで愛媛に向かった日のことだったが、これにも違和感はあった。

終息どころか収束の見通しも、ワクチンや治療薬の開発の進捗も何も見えていない段階で、数日後には来年の開催日までが発表されてしまった。楽観的過ぎはしないか?
今、それが言えるのは、IOCではなく、WHOなりの医療・保健機関だけではないのか。

アスリートや運営関係者の都合や心情をおもんばかってのことだろうが、ここはいったん無期限延期を宣言し、全世界の人たちにそれほどなの!?気を引き締めてもらって、医療分野で進展があるごとに、このペースなら◯◯頃には開催できるかもしれないと、日程の目処を段階的に予測していったほうがいいのではないだろうか。

そのほうが、オリンピックの開催日というものが、アスリートも一般人も一丸となってウィルスに立ち向かう目標そのもの、戦局のバロメーターになるように思うのだが。
これこそ、All Japanで、All one worldで。

明るい2021年が来る保証はないが、この一年間は、アスリートのみならず、政治家も学者もサラリーマンも学生もニートも、世界中の人にとって公平に失われた一年になっても仕方がないのではないか。

たまたまこの時代に生き、このウィルスの攻撃から生き延びた人は皆、後年、堂々と胸を張って一歳ぐらい若くサバを読んでもいい。
2020年は個を没して人類存続のために捧げたんだからと。

47日現在、ミャンマーで確認された感染者の数は22人。
この時点で既に国際空港は封鎖している。もちろん、母国へ帰国する人たちの便宜は図っているが。
国の医療レベル、さばける患者数などを考慮すると、いい判断だと思う。まだ抑え込める可能性のある国だけでも、どうか抑え込んでいてほしい。

日本と比べると、医療事情は雲泥の差で劣るし、噂に付和雷同しやすい国民性などの弱点はあるものの、私は、この戦いにおいては、ミャンマーのほうが勝算が高いのではないか、犠牲者の数を低く抑えられるのでないかと思っている。

理由の一つは、社会主義、軍事独裁政治の名残りで、国民の声などどこ吹く風、よくも悪くも、とんでもない政策を、政府は突如発表して断行してしまうこと。

一つは、若い人たちが年長者の言うことを聞く習慣が、日本などに比べると、まだ強く残っていること。

一つは、この人の言うことなら聞く、この人にはどこまでもついていくと、大多数の国民が慕う絶対的カリスマがいること。言わずと知れたスーチーさんだ。

日本は案の定、テレビではいろんな有識者と呼ばれる人たちがいろんな意見を言う。
その一つ一つは決して間違っているわけでなく、ごもっともだし、生き抜くための参考にもなる。
けれども、それらを整理するのが国のトップ集団の人たち。社会保障制度をセットでとか、このままじゃ経済が疲弊して自殺者が出るとか、いろいろな意見はある。

けれども、まだ一回戦も勝ち上がっていないチームの監督が、決勝戦での作戦を考えあぐねていてどうする。
明るい未来を想像するのはいい。けど、まずは目の前の敵を倒してその場を生き延びるということが、サバイバルの鉄則だ。
とにかく、この感染さえ防いで生き抜けば、あとはなんとかなる。
日本には、命あっての物種という言葉があるではないか。

死んでしまったらそれまで、その先はないのだから。

バンコクの銀行で、私は大転換しつつある世界の潮流をつくづく感じた。
以前は、銀行と言えば、マスクはするなサングラスをかけるなヘルメットは取れ、が常識の場だった。強盗やテロへの対策だ。
それが今では、マスクをしなけりゃ入っちゃいけない、なのだ。真逆だ。

地球の存亡、人類の存亡を賭ける事態とは、こういうことだ。
国と国、人と人とが戦争をしている場合ではない。
地球の上に誰もいなけりゃ右も左もない、泣くこともできないのだから。

ここで待望するのは強いリーダーだ。とにかく今は目の前のウィルスから身を守ることに徹しなさい、あなたたちの未来を見捨てることはないからと、腹をくくって断言できるリーダーだ。
よくも悪くもケンカの勘所を熟知していた小泉元首相や田中元首相なら、ここまでぐずぐずしてはいなかったに違いない。

今できることは何でもやる、やっていくうちにダメなものは切り捨てていく、そういう取捨選択をしながら立ち向かっていくのでもいいのではないか。
トップ集団が最善策を求めてあれこれ考えあぐねて前に踏み出せないでいるような国。そんな国が、ねずみ算式に増殖する怪物にとっては、最もおいしいカモであることは間違いないのだから。
お膳立てとか落とし所とか伝統的和風政治をやっている場合ではない。

さらに、我々一人一人にも責任はある。
若い人たちだけではないが、多くの人たちが我が身の不自由を訴え、個人の自由を主張する。そして行きたいところへ行く。
行かなければならないところ、ではなくてもだ。絵に描いたような民主主義。

3月中旬の時点で、多くのミャンマー人の友人が、帰国を予定している私に「今はミャンマーにいたほうがいいよ」と勧めてくれた。その反面、「日本は今どうなの?」とも尋ねられ、「それほど酷くない」と答えると、「さすが日本だな」とも言ってくれた。

今は実際に帰国してドタバタを見て、とてもじゃないけど、日本はそれほど酷くない、などとは言えたもんじゃない。

現在、爆発しながらもコントロールできている、あるいは抑え込みに転じていると言える国は、お隣の韓国と、ドイツ、中国あたりだろうか。敵を倒すためには何の躊躇もしていない。
非常事態に陥ったときには、社会主義国や社会主義体験国のほうが、より強いのではなかろうかと思わずにはいられなくなってしまう。

今、日本が試されているのは、第二次世界大戦以降、信じて培ってきた民主主義、と言うか、自由主義、個人主義が、はたして正しかったのかどうかなのだと思う。

一人でも多くの人が、このウィルスを克服され生き延びられますように(祈)。

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