2020年7月24日金曜日

第三次世界大戦 –敵は新型コロナウィルス–、その2. ―World War Ⅲ, against COVID-19, part 2.


本題の前便 は、コチラ

前回私は、この状況の中で日本が試されているのは、これまで信じて培ってきた民主主義、自由主義、個人主義が正しかったのかどうかではないか、と言った。

少なくとも、銃の所持は個人の権利だ自由だと主張し、自他を守るためのマスクの着用は個人の自由の侵害だと反発する民主主義国家の本家よりは、マシだったのかもしれない。

コロナ禍の三都物語
世界が大きく変わりだした3月下旬、ヤンゴン→バンコク→東京と巡った三都物語は、とてつもなく鮮烈で、その後の愛媛での長期の足留めは、最近の私にはない異例の事態となった。

バンコク成田で使った帰国便は翌日から運休になったが、その後再開は叶わぬまま、先日、航空会社そのものが倒産してしまった。
私が乗ったのは、本当にほんとのラストフライトになってしまい、厳しい状況の中、予め座席に置かれていた水とパンは、今となっては忘れ得ぬ最後の武士の情けとなった。

3月下旬の時点で、ともに感染が拡大している中、コロナで国民を死なせないための人智を尽くしていたのはタイ政府のほうで、オリンピック開催を死守しようとしていた日本はゆるゆるだったと私は実感していた。
そのように書いてはみたものの、結局は医学の発達した日本が先に危機から脱して、タイやミャンマーは悲惨なことになっていくのかもしれないという不安はあった。

あれから四ヶ月が経過した時点での結果、先に一抜けしたのは、やはりタイのほうだった。
タイでは、新規感染者数のゼロ行進が続いても、しばらく規制を緩めることはなかった。
もちろん国民の不満も困窮も募っているが、あくまでコロナつぶしを最優先にして、いまだ開放には用心深く、慎重に進めている。

723日現在、タイの累計感染者数は3,269人で累計死者数は58人。
ミャンマーは、8月3日現在、検査済検体数累計118,127、感染観察対象者数が6,819人、累計感染者数は355人で累計死者数は6人となっている(訂正・更新)

日本の報道の姿勢は、やたら欧米を見ており、あちらに比べれば日本は犠牲者が少ないと讃えている。けれども、アジア東部で見ると、日本の犠牲者の比率は、むしろ高い。そこまでの統計を出してくれるのは、池上彰さんの番組ぐらいのものだ。

相手がウィルスの場合、対処法さえしっかり守れば、たとえ医術の水準では劣っていても、行政と国民性で押さえ込めている途上国はたくさんあるということだ。

突然の新型コロナの出現により、思いがけず、それぞれの国のそれぞれの分野での実力が、白日の下に晒されることとなった。
果たして日本の実力やいかに?

コロナ禍の情報禍
とにかく、日本のあらゆるメディアからは日々情報が発信されており、その波に呑み込まれることなくうまく乗れば、この災難を避けつつ平穏な日常を送るための強力な武器となってくれる。
ただ、あらゆる立場の専門家や組織が、それぞれの見解や情報を発信するので、信じるべきものが分からなくなって不安が募ったり、情報収集や対策の実行がストレスになったりしていては元も子もなくなってしまう。
情報の海には溺れないようにしなければ。

私は主にテレビからだが、ここまで経過を見て、新型コロナウィルスに対して私が感じてきたことは、これほど分かりやすい見本はない、ということ。

ウィルスの特徴はなかなか掴めない反面、対処法は明解で、それをがんばればがんばるほど、耐えれば耐えるほどいい結果が出て、怠ければ怠けるほど、捨て鉢になればなるほど悪い結果を迎える。
まさに受験勉強のようなもので、どんなカリスマ予備校講師の教えよりも説得力がある。

第一波の爆発をなんとか防ぐことができたのは、科学に基づいて、3密の回避やマスクと手洗いの励行や移動の自粛などを提唱してくれた医療専門家のお陰であることは間違いない。

それに対し、何十万人も感染するなどと脅しておいて結局何も起こらなかったじゃないか、と憤慨している人もいた。
そのような実業家や評論家のコメントを聞いていると、現実に自分がどれほどの損失を被ったかということをやたらと強調するだけで、国民が何もやらなかったらどうなっていたかという、もう一つのもしものシナリオには想像が及んでいないように見える。超現実主義なのだろう。

何も起こらなかったのは、医者の警告と提唱と国民の実行力があったからこそ。
何もしなくても同じ結果になったはずだと信じる者は、数学の指数関数以前に、ねずみ算のイメージすらできていないのかも。

さらに、新型コロナウィルスは風邪やインフルエンザのようなもの、と言うインフルエンサーも結構いるが、それは違う。
病気の分類としては同じようなものだとしても、それは客観的な微生物学なり病理学なりの視点であって、対人類への影響という点では、治療薬やワクチンがないという時点で、その存在はまったく別物となる。

コロナ禍のIT
私の未来予想で、大きくハズレていたことがある。
自然由来の全地球的クライシスが起こったならば、最終的に強いのは、より原始に近い暮らしをしている人々や国だろうと私は想像していた。

ところが、このコロナに対しては、西ドイツ、韓国、中国、台湾などのIT先進国ほど、いち早く危機を脱しているように見え、日本はもたついている。

ちょっと前までは、日本製を偽装したメイドインチャイナの製品を笑ったり、無許可のディズニーランドもどきを笑ったりしていたが、今や、FAXやハンコなどを介した日本の伝統的手続きなどが海外から笑われ、そのうち、リモート中継で映像がフリーズしまくる日本のテレビ番組なども、中国や韓国の人たちの笑いものになるのかもしれない。

お家芸のように言われていたロボット技術でさえ、コンテストでは日本チームは何年も優勝できないでいる。
ITとかICとかが全盛の時代に、日本は完全に乗り遅れた途上国になっているということが、このコロナ渦で世界に露呈することとなり、技術立国日本というのは今や昔の幻想となってしまっているようだ。
公的なIT化政策にまったく協力していないアナログ人間の私が、えらそうに言えた義理ではないのだが…

IT先進国とは言い難い東南アジアの国々が被害を押さえ込んでいることに関しては、ウィルスの型とかBCGとか政府の強権とか国民性とかに要因があるのかもで、国土や暮らしの自然度とは関係がないのかもしれない。

考えてみれば、医療こそは先端科学の賜物であって、もし、現在の医療がなければ、私の命は二十年も前にマラリアで終わっていた。
生きられるだけ生きたいと願う死生観を持った以上、目の前の人間を救うには、やはり最終的には科学に頼るしかないのかもしれない。

コロナ禍の自粛と暴発
日本では、行政の締め付けが厳格ではなく、お願いベースであるにもかかわらず国民は自制できてしまい、これこそが日本人の美徳、みたいに自画自賛している。

そうかもしれないと思う反面、背景には、誹謗中傷されたらどうしようとか悪評を拡散されたらどうしようみたいな不安や恐怖心が社会全体に蔓延していることが影響しているのではないか、とも思う。
今でこそ、日本人の接客は丁寧だなどと外国人からも称賛されているが、実際のところ、SNSなどなかった時代には、客を罵倒したり皮肉を言ったりする店員や個人商店主は結構いたものだ。

世間の目や吊し上げなどに戦々恐々しなければならない日本の村八分体質こそが、社会全体の秩序を支配しているかのようにも思え、その反動として、SNSなどがはけ口になっているのだとしたら、自画自賛などしてはいられない。

若い女性を自殺にまで追い込むような卑劣な匿名の誹謗中傷こそは、銃の所持に匹敵するほどの自由主義の暴走で、このような人命に関わる案件にこそ、政府はもっと介入して強権を奮ってもいいと思う。

反面、実名を名乗った上で個人の見解を述べたりすることは、取締りの対象とすべきではなく、たとえ政府を批判してもしょっぴかれない今の状況は、まだ健全な民主主義の土壌が保たれている証拠だとも言える。

コロナ禍の二つの死
感染による病死も、感染防止策の不可抗力による失業者などの自殺も、どちらも命に関わる問題であって、同時に対策を進めるべき、というコメントをよく聞く。
命対命の問題であるということには納得するが、「同時に…」というのは違うと思っている。

まさに生死に直結する救命救急を学んだり現場に立ち合ったりしたことがある者は、身につまされて分かるはずだが、緊急な場面であればあるほど常に優先順位が求められる。

9年前の東日本大震災からよく耳にするようになったが、大規模災害の現場では、トリアージという命の仕分けを迫られる。
身近なアクシデントでも、救急車やAEDが到着するまでに、まずは人工呼吸と心臓マッサージによる心肺蘇生法を試みなければならない。
この一次救命処置をやるのとやらないのとでは、生存率が大きく違ってくる。

対コロナでは、感染の予防が命を守る一次であって、生活の救済は二次とすべき。
自然災害で言えば、地震や津波で亡くなるのに相当するのが感染死で、避難所や仮設住宅での災害関連死が自殺に当たるだろう。
オレは避難所での生活には耐えられないからここで死んだほうがマシ、と後々のことを考えて、目の前に迫りくる津波から逃げるという自己の一次救命を諦めるだろうか。

さらに、これは死生観にも関わってくる話だが、人生最後のスイッチを誰が押すのか、ということである。
相性が悪ければ、いくら本人が生きたいと願っても、最後のスイッチはウィルスに押されてしまうのだ。
まず、本人が望まない最後のスイッチを決してウィルスに押させないようにすることが、全力でやるべき第一次の処置。

その理不尽な死を防いで生き延びてさえいれば、本人の意識の変化や周りとの繋がりの中で、最後のスイッチを押そうとしていた指を制止できる時間も可能性も十分に生まれてくるはずだ。命あっての物種なんだから。

もちろん、経済や経営が専門の学者や役人の方々には、最初から生活の保障や救済案にガッツリ取り組んでいただきたいし、病気の専門家は予防や治療法にだけ集中していただきたい。
そういう意味での同時進行であるべきという意見なら大賛成で、それを集約して段取りを付け、順序立てて実施していくのが、国のリーダー集団の手腕であろう。

実際には、◯月◯日からの三週間、全国民一斉にセルフロックダウンをお願いします、その間の食費として前週までに一人あたり10万円を振り込みます、みたいなメリハリの効いた施行はできず、日本では、全国新規感染者ゼロという成功体験が一日もないまま、ファジーな日常が続いている。


専門家の提唱も政府の生活保障も国民の実行力も、お互いが半信半疑なら、致し方のないことかもしれない。

コロナ禍のキャンペーン
今の日本の最大の弱みは、国の中枢が最も付和雷同している、ということに尽きる。
責任の所在とか世間の評判とか、そのような邪念が少しでも過ぎろうものなら、このウィルスは、そんなささいな隙を決して見逃さないだろう。

これまでの政府の肝入り政策は、ことごとくコケている感があるが、今度のGo Toトラベルキャンペーンこそは、起死回生の一打を見せてくれるのではなかろうかと、実は期待していた。
ところが、その内容は、旅費の一部は国が持つ、その代わり、感染対策は、行く側、受け入れる側の責任でと。
肝心なところはいつも個人の裁量。日本的民主主義にお任せ。どこに政府の肝が入っているのか。

プロスポーツは、選手のPCR検査を定期的に実施して、今のところ開催を継続できている。
その成功例を見習って、そのまま旅行キャンペーンにスライドさせたなら、支援の中身は、出発◯日前のPCR検査を政府の補助で義務化し、陰性ならば旅行してもらう、というシステムに行き着くのが、ごく自然な流れだと思うのだが…

それだと、知りたかったウィルスの有無も知れ、行きたかった旅行も叶い、たとえ旅費の補填がなくても、たくさんの申請があるはずだ。
旅行者の陰性を国が証明しているのだから、受け入れる側の不安も晴れ、観光地は旅客で潤う。国の経費負担も限定的だし、一石何鳥にもなる。
偽陰性などの不安に対しては、検査の精度は100%ではないということを断っておき、引き続きマスクや手洗いをと、暮らしの新スタンダードをお願いすればいい。

それなのに、今回もやはり日本政府の肝は見えず、実施方法を巡って揺れ動いている始末。
人ではなくエリアで仕分けようとする限り、この混乱は続くだろう。嗚呼…

コロナ禍の検査の是非
当初、韓国や中国からの入国を日本がいち早く遮断したことに対し、先方からは、日本より検査数が多いのだから感染者も多くなるのは当然だと反論され、その後、欧米からも、日本は検査数が少ないから日本の統計は信用できないと指摘された。
その都度、日本政府は、日本の統計は実態を反映しているように言ってたのではなかったか?

ここへ来て、東京を中心に再び感染者数が増加し始めると、検査数が増えたから当然のことだと、平然と言ってのける。
今頃それを言い訳にするか。あの頃の統計は信用できませんと、自ら認めているようなものではないか。

以前の政府の発言からすると、例えば旅行キャンペーンの一環でも大々的な検査はできそうなものだが、実のところは、整いつつあると言い続けてきたあらゆることは、結局、遅々として何も進展していなかったということだろうか。

識者の中にも、PCR検査には意味がない、と言っている人が結構いた。
限られた予算と駒の中での優先度からすれば、それも一理あるのかもしれないが、何事も、統計の基礎的資料がなければ正しい対策は取れないはずだ。

検査の精度も問題だとしているが、◯%ほどのエラーを含むという前提条件が共有できているならば、それでも統計としての価値は十分にあり、何もやらないよりは大きく実態に近づける。
各国がPCR検査の結果を基礎的資料として出し合っている以上、もはや、それを以て比較するしかないのに、医療分野でも、日本はガラパゴス化をよしとするのだろうか。

徐々に開国を始めている国も、入国条件には陰性証明書が必須アイテムとなっているが、国の負担で全国民を対象にPCR検査を進めている国などふつうにある。
一方、日本では、6月下旬の東京のクリニックでの検査と陰性証明書の発行が45,000円だったとの報告を拝見した。

90年代のミャンマーでは、輸入品であるコーラがメインディッシュよりも高かったりしたが、なんか、そんな途上国あるあるを思い出してしまった。
いや、日本の医療体制が発展途上であることは、もはや現実のようだ。医術は先進なのに…

これはもう、感染歴もPCR検査も抗体検査も、新型コロナに関するすべての履歴を記入するコロナパスポートを作ったほうがいい。
WHOなりが雛形を提示し、世界共通のものを全地球人が携帯するようにできないか模索したほうがいいと思う。

コロナ禍の不平等
それにしても、感染していない東京の人が旅行の支援を受けられず、地方にいる無症状の感染者が旅行してしまうかもしれない制度…そんなの、小学生でもおかしいと思うだろう。
こんな理不尽な制度を平静に報じられている在京のニュースキャスターの方々には、お気の毒で頭が下がります。

一丸となって闘っていた国民の心を、政府が引き裂いてどうする。
Go toトラベルはトラブル行きの切符ではないかと、多くの人が感じ始めているだろう。Go toイートももういいと、Go toイベントももうかんべんと。

3月下旬頃は、まだ新型コロナに対する認識が不十分だったこともあるだろうが、海外旅行を諦めた人たちが大挙して沖縄に押し寄せている報道を見て、ここでもまた犠牲になるのは沖縄なのかと、虚しさを感じずにはいられなかった。
そして、国を囲い込んだ直後は、鎌倉や湘南海岸が関東圏のしわ寄せを受けているように見えた。
反面、首都圏の大学がリモート授業になっても、学生は地方の実家には帰れないというのもおかしな話だ。

東京だけを封じ込めて、他が安全ならばそれでいいのか?
そもそも、クラスター潰しというピンポイントでの対策が日本の戦略ではなかったか。
それがいきなり、東京都まるごとを巨大隔離病棟とみなすかのようなドンブリ戦略へと急転換してしまっている。

これからずっと日本の風土に根付いて刻々と状況を変化させるウィルスに対しては、全国一律とか、東京都だけ外すとか、そんな画一的な取り組み方は、まったくそぐわないだろう。

旅行ならば、できる人とできない人との線引きは、決して住んでいる場所ではなく、体内にウィルスを持っているかいないか、その一点に尽きる。
そのためには、一にも二にも検査の一般化。

すべては、東京オリンピックを死守しようとしたことが、スタートラインでのつまずきを招いたような気がしてならない。
322日の帰国時の、お祭り前のような、あの空港のゆるい空気感…

コロナ禍の強権
これからずっと続くであろうウィズコロナ時代の新スタンダードでは、先週◯◯君が隔離施設から帰ってきたよ、明日から◯◯さんちは隔離だって、みたいな状況が日常茶飯事になるぐらい、社会の仕組みは柔軟で、取組みは流動的であるべきだと思う。
ハードルは低くフットワークは軽く偏見もなく。

この点では、東の対岸の大国よりも西の対岸の大国の図々しさを少しは見習ったほうがいいのかもしれない。
一次的に人命を救うためなら、政府は、有無を言わせぬ強権を奮ってもいいと思う。終身刑の収監をするわけではないのだから。

個人の権利は二の次で、その場を見事生き抜いてから後に、晴れて政府にありったけの罵声を浴びせてくださいなと。

時代劇でよく見るパターンで、危機が迫っているのに聞き分けのない主君や姫君に対し、家臣が「ごめん!」と一発当て身を食らわし気絶させ、危機を脱した後に覚醒した主にこっぴどく叱られる、というやつだ。
こと命に関わる場面に限っては、規則も建前も越えていいと、私は考えている。責任は後で取る。

とにかく、まずは「コロナでは死なせない」という信念を持って腹を括らなければ、政治家さんは。

コロナ禍の主観と客観
4月に感染者が増加し始めた頃、第一波という言葉をよく聞くようになり、それからは、感染者数の推移を毎日グラフで見て一喜一憂するのが日課のようになっていった。
やがて、3密回避、手洗いとマスク、移動自粛などが功を奏し、グラフが下降し始め、やはり、世の中の摂理は数学なんだ、やればやるほど成果が出るんだと、安堵し始めていた。

7月になって、再び以前と同じような上昇曲線になり始めたが、医療がひっ迫していないから第二波ではない、という解釈が聞かれるようになった。ここへ来て突然、という感じだ。
第一波、第二波というのは、客観的な数字の変化を見て言ってたんじゃないの?
てっきり、普遍の数学によるものと思いきや、医療事情とか、そんな人為的要素が判断材料に割り込んできたら、まとめ役のさじ加減一つで、どんなにでも解釈できてしまう。

国や自治体からの呼びかけにおいても、達成目標は客観的な数値にしてもらったほうが分かりやすいし取組みがいがある。
スローガンとかは主観的に言ってもらってもいいから、ごちゃまぜにはしないでほしい。

首相一世一代の宣言ですら、こうなったら発表するという基準が客観的な数字では予め決められていなかった。
当然、国民の困惑は募る一方だ。出るのかい出んのかいと。

恥ずかしながら、この騒ぎで初めて知ったのだが、首相は内閣総理大臣という一大臣であって、大統領ほどの権限はないのだとか。
権限の行使ということにおいては、直接選挙で選ばれた都道府県知事のほうが実権を持っているのだとか。
まさに一国の領主というわけか。

その証拠に、今回の件では、同じ法律の下であっても、各知事の裁量で都道府県ごとの対策は微妙に違っている。
その中では、科学数学に基づく客観的な数値でレベル分けし、それぞれの対策に機械的に連動させている大阪のやり方が、言ってることとやってることに一貫性が見えて分かりやすい。

東京は、主観も客観もごちゃまぜで、とにかく羅列することこそが仕事の価値、と言いたげなようで、やたらページ数ばかり増やして見栄えをよくした卒論みたい。
そして、言ってることとやってることが食い違ってくると、その辻つまを合わせる言い訳をさらに羅列する。
その繰り返しによって理屈の雪だるまはどんどん膨らみ、ますます身動きが取れなくなっているのでは…

東京都では、さらに区という単位が強い独立性を持っているとかで、政治経済が苦手な私には、もう訳が分からない。

そんな私にも、関東では神奈川や埼玉の対策はより分かりやすく、芯が通っているように見える。

コロナ禍の謝罪
テレビを観ていて日々違和感を覚えるのは、コロナによるでコンサートや演劇の中止のお知らせで「お詫び申し上げます」となっていることだ。
中止する側も被害者であり、そこは「ご了承願います」とか「ご理解お願いします」でいいのではないか。みんなで闘っているんだから。
コロナ関連で起こってしまった不都合は、とりあえずすべて悪、みたいな風潮は違うと思う。

今の状況では、どんなに注意しててもウィルスに感染してしまうことはあるだろう。
もし感染してしまったなら、もっとこうしておけばよかったと、本人自身が未来に向けて反省すればいいのであって、周りに謝ったり周りから非難されたりするものではないだろう。

あの人のせいで休校になったとか閉店になったとか、そんな指を差す行為は、なんの進展にも解決にもならない。
明日は我が身。これからの長い闘い、誰が感染してもおかしくないのだから。

不可抗力で起こったしまった不都合を何でもかんでも謝罪の対象にする流れは、もうやめにしませんか。

コロナ禍の英雄
頼りない政治家を尻目に、3密を提唱してくださった医療専門家の方々は、最初の危機から日本を救ってくれた。
さらに、全国津々浦々の現場で奮闘してくださっている医療従事者のみなさんお一人お一人が、偉大なヒーローでありヒロインだ。

そして、忘れてはならないのが、国民の気持ちを一気に引き締め、多くの日本人を救ってくれた最大の功労者。志村けんさん、そして岡江久美子さん。
私もだが、いざとなったら日本の先進医療がなんとかしてくれるに違いないと、根拠もない幻想を持っていた。
ところが、このウィルスに取り付かれたなら、いかに名声もあり資産もおありだったにしても助からないときは助からないのだということを、お二人は命と引換えに私たちに教えてくれたのだ。

あの頃に感じた恐怖、悲しさ、覚悟。今一度、思い起こしてみませんか。

人との接近接触が災いの種になるかもしれないという不条理。こんな辛い世の中が来るとは思わなかった。
けれども、人類が生存し続けるためには、この現実を受け入れ、新しい価値観と様式に順応していくしかない。体内に抗体を備えた人類と宿主を死なせないウィルスとの調和が達成できる未来の世代に交替するまでは。

新型コロナウィルスで亡くなられたすべての皆様のご冥福をお祈りいたします。
大西信吾

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