2016年10月25日火曜日

ミャンマー自然探訪、その1. -野獣の宝庫AK- ―Exploring Myanmar Nature, Part 1. -Animal Kingdom, Alaungdaw Kathapa National Park-

マレージャコウネコ
Common Palm Civet (Paradoxurus hermaphroditus), Mar. ’16

 「船賃は人と大荷物合わせても数十チャットで、サイカーも運び屋も使ったとしても二百チャット以内で対岸に上陸できる。」これは、2002年に発行した拙著「ミャンマー動物紀行-旅日記編-」の一節で、19986月の様子を記している。

それから約18年後の2016228日、私は同じチンドウィン川のほとりにいた。サガイン管区の町モンユワと対岸の村ニャウンピンジーを結ぶ船着場だ。ミャンマー各地の動物や自然の中で生きる人々を訪ねるようになって、もう20年になるが、この間のこの国の激変は凄まじかった。初期の拙著には、あとから来る旅行者のためにといろんな情報を盛り込んだが、交通や物価などのデータは、もはや参考にはならず、過去をうかがい知ることだけに価値の残る古文書のようになりつつある。インフラの中でも爆発的に増えたのが大河にかかる橋だろう。初めて来緬した1990年には、エヤワディー川本流にかかる橋といえば、マンダレーとサガインを結ぶアバ橋(インワ橋)一本しかなく、旅行には渡し船が付き物だった。どんなにスイスイ陸路を移動してきても、渡し場まで来たならいったん立ち止まって乗船の順番を待つしかなく、別の土地に移る前の心身のリセットになったものだ。人用には小型のエンジンボート、車ごとならゼッ(Zクラフト)と呼ばれる平らな台船が両岸を行き来していた。

で、モンユワの渡しはというと、インドに向かうハイウェイ構想が優先したようで、橋は町の中心から10キロぐらい北側にかかってしまったため、直に対岸に渡る人用の渡し船は生き残った次第である。十数年前とは違って、外人は一般客とは一緒に乗れず、スペシャルボートと称して、一人(または一組)だけで一隻を借り上げなければならないとのこと。で、そのお値段は…ほんの5分強の乗船で五千チャット也!である。ちゃんとその額面で領収書も切り、客がたまるまで動かない乗合船と違ってタッチアンドゴーで出航するので、スペシャルはスペシャル、規則は規則なのだろう。ヤンゴンにいる時なら、すれ違う人に道や時間を尋ねられたりもするが、撮影行に出かける際は、根城を発つ時点で既に現場モードになっていて、カーゴズボンにザックにアルミケースと、どこから見てもよそ者と分かる。銅山に向かう東洋系山師ぐらいに思われているかもしれない。私も、出生を偽ってまでズルをする気はないので、時代の流れを感じつつチンドウィンの流れに身を任せることにした。
チンドウィン川の渡し船
Ferry boat crossing Chindwin River

様変わりしたのは水上だけではない。まず、近距離移動と言えば、昔も今もサイカー(自転車タクシー)がエース格で、旅の途中で見かけたなら、そこそこの町が近くにあると分かるほどだ。さらに地方の町では、より遠く、より大量の移動手段として馬車が控えていたのだが、この馬車が今や絶滅寸前なのである。バイクの後部を広い座席に改造した三輪車トンペインや、バイクそのものの後部座席に座るサイケー(=サイクル)などが、見る見るうちに馬車に取って代わってしまった。実はこの時も、川岸での荷物の積み下ろしも、対岸から目的地までの移動もまとめて引き受けるということで、バイクの兄ちゃん二人が乗り込んでいた。ナンバープレートも付いている馬車は合法だが、彼らの場合、営業資格の有無すら不明。数ある移動手段の中でも、できれば避けたいのがバイクだが、普及にともなって後ろにまたがる機会は確実に増えてきている。数日かけて歩くしかなかった細道を数時間で行けるとなると、どうしても心が動いてしまう。

上陸したニャウンピンジーから目的地のインマービンまでは1時間弱の行程で、私と荷物用に二台で一万チャットポッキリということで手を打っていた。走りだして間もなく給油所に入った。この時点で、この先何が起こるか見えていたが、流れに身を任すことに決めていた私は余計なことは言わなかった。無事に届けてもらい礼を言って一万チャット払うと、案の定「足りねえ」と言う。プラス、ガソリン代が三千チャットだと。これも想定内だったので追加分を払って早々に追い返したが、あんたらは嘘をついたということだけは念を押しておいた。あちこちでいろんな乗り物の世話になってきたが、昔からモンユワの運転手は、かなり質が悪い。とは言っても、荷物だけを積んだバイクがどこかに消えたとかいうことはなく、まあ小ワルといったところか。

今回の最終目的地は、アラウンドーカタパ国立公園(Alaungdaw Kathapa National Park)で、このインマービンには管理事務所がある。業務の都合上、事務所は郡の中心地にあるが、保護地域そのものへは、ここからさらに未舗装の田舎道や川床や山道を越えていかなければならない。頭文字を取ってAKパークと呼んだりもするが、この「パーク」「国立公園」という言葉が曲者で、日本人には誤解のもとである。日本では管轄の行政ランクによって、国立公園、国定公園、県立公園などと区分されるが、管理体制からすれば、ミャンマーではすべて国立と言える。そして管轄ではなく、保護の厳格さによって呼び名が区分されている。これは、国際自然保護連合(IUCN)の基準に従ったもので、国立公園は自然保護区(Wildlife Sanctuary)よりも格上で、より厳格に原生の自然が守られなければならない。でっかい国民宿舎やらロープウェーやらがある日本の国立公園とは大違いで、舗装道路や電線を張り巡らしただけでも、逆に国立公園から格下げになるかもしれないのである。

AKは、私にとっては林間学校のような存在で、この森の中で過ごした日々を通して、野生動物との間合いの取り方や森暮らしの流儀などが次第に体の中に染み込んでいったような気がする。初めてヒョウと鉢合わせしたのも、初めて密猟者と遭遇したのも、初めてマラリアに罹ったのもこの森だった。内にある野性の勘と体力レベルを再確認すべく、数年に一度は戻ってきてたものだが、20091月を最後に、しばらく足が遠のいていた。この間も私は、林業現場で働く山ゾウやエヤワディー流域の三大動物や南部の常緑林や中部の乾燥林など、あちこち訪ねてはいたのだが、AKでは、どうやら私は死んだことになっていたらしい。マラリア死亡説や津波死亡説が出たそうだが、私のことを忘れずに噂してくれてたと知り、なんかうれしかった。事務所のみんなとはたっぷり話してご飯も食べて、亡霊にはない足跡を残し、早速その日のうちに保護地域を目指した。

なじみのジープにドアはないので、カメラなどはバッグに入れておく。座る位置によっては、目、鼻、口もゴーグルやマスクでガードしたほうがいいかも。油断すると土ボコリにまみれ、すべてが安倍川餅みたいになってしまう。土の道は、雨季の間はぐじゃぐじゃになって車は通れず、11月頃から改修を始め、翌1月ぐらいにやっと全線開通となる。道の両側には、枯れ草がまばらに残る荒野や乾いた畑が広がるばかりで、この先に大森林地帯があろうとは想像もつかないが、安倍川餅になりかけた対向車は次々にすれ違う。保護地域核心部にある峡谷には高僧の遺体が安置されているとされ、仏教徒にとってアラウンドーカタパと言えば、一度は参拝してみたい聖地となっているのである。以前は荷台を座席にしたピックアップバスが参拝者の主な足だったが、今では大型バスも走っている。山岳に入る手前の村の茶店も賑わっている。店の一家にも顔を見せて生存を報告。席に着けばラペトゥッ(茶の葉サラダ)がスッと出る。様変わりしたのは、大きな冷蔵庫と冷えたポカリスエット、そして、村の外れの電波塔。民間携帯会社オリドゥー(Ooredoo)のものだ。
かつてはなかった夢のコラボ、ラペトゥッとポカリ
Newest combination, Tealeaf salad with Pocari Sweat

ここからは山肌を削って均しただけの山岳道で、トンネルも橋もガードレールもない地形に沿ったクネクネ道が続く。保護地域の外郭を成す分水嶺を越えるといよいよ森林地帯に入り、大きな谷川の流れを数回突っ切ったら、車道の終点タベイセイに着く。インマービンから3時間半、ヤンゴンのバスターミナルを出てから約22時間、二日ぶりに平らな寝床で腰を伸ばした。タベイセイは元々、保護官や研究者のための簡素な宿舎がある一角だったが、乾季の道の開通にあわせて、参拝者向けの仮設の食堂や喫茶店が立ち並ぶようになった。いつもは里にいる森林局職員の家族がやってる店が多くて顔見知りだらけなので、逆に一つの店に絞るのが私にははばかれる。
公園中心部に向かう季節道
Seasonal road toward the middle of the national park

  次々に現れる懐かしい顔の中でも、一番のサプライズはミーチューとの再会だった。この森で初めて会った時、彼女はまだ小学校にも行ってなかった。外国の人も名前も彼女にはおもしろくて新鮮だったようで、しょっちゅう「オニシー」「オニシー」と呼んでは着いてきてたのを覚えている。その後、里の学校に通うようになってからは会ってなかったが、彼女がいると聞き、そっと店の前に立ってみた。「オニシーか?」「ミーチューか?」おどかすつもりでいた私のほうがおったまげた。片膝にでも乗っかりそうだった女の子が、今では食堂の女将なのだ。自分がいかにいい歳したオヤジになってるか、改めて思い知らされた。記憶から消えててもおかしくない幼少期のことなのに、私のことも当時の出来事も彼女はよく覚えていた。私にとっても、かけがえのない森の子の一人だ。
:食堂の女将、ミー・チュー、下:19年前のミー・チューと兄姉
Upper: Proprietress of a seasonal restaurant, Ms. Mi Chu, Lower: With elder brother & sister 19 years ago

タベイセイまで辿り着いた町の人が真っ先に度肝を抜かれるのがゾウだ。ミャンマーこそ正真正銘のゾウの王国だと私は断言できる。けれども、多くの国民にとってゾウは縁遠い存在である。ほとんどの野生ゾウは森の奥深くに潜んでいるし、使役ゾウも、本来の生息地である森の中に留まって、ゾウ使いと共に林業に従事している。なので、町場でゾウを見かけるようなことは、ミャンマーではほとんどないのである。AKには森林局所属の使役ゾウがおり、保護官をサポートして公園全域を泊まりがけでパトロールしている。そのゾウたちが、参拝の時期には車道終点からパゴダまでの数キロ区間の乗り物として利用されているのである。保護地域の外の伐採現場で働く木材公社のゾウたちも、その年度のノルマを終えると応援にやってきて、いい副業にもなっている。
ゾウが待機する車道終点
Terminal of seasonal road where carrier elephants are standing by


野生動物の観察・撮影が目的の私には、人混みにもパゴダにも、それほど用はない。翌朝にはテントや食料を持ってタベイセイの宿舎を出た。お供は、なじみの保護官二人と一組のゾウ使いと使役ゾウだ。ゾウは雌のポーイーサン。彼女もやんちゃな子ゾウとして先の拙著に登場するが、今や23歳のレディーである。ゾウには大きな荷物を預け、私は最低限の必需品と機材を背負って地上を歩く。撮影の都合からしても、そのほうがいい。保護官たちも、オーニシは“歩けるオヤジ”と分かってくれているので、人用にもう一頭雇うかどうかを問われることもない。あっ、分かってくれているのは“懐寒いオヤジ”ということかも…
ゾウを伴って森に分け入る
Going into forest with an elephant

米、野菜、卵などは町から持ってはくるが、キャンプでのお楽しみの一つは、とりたての魚や野草が食べられることである。さっきまで泳いでいた魚の素揚げは、申し訳なくも格別にうまい。「厳格に自然を守られなければならないんじゃないの!」と自分でツッコミを入れてしまいそうだが、パトロールや調査は森林局の職務の一環で、その間、保護官が渓流に網を仕掛けるぐらいのことは許されている。例えば、町から買ってきた缶詰だけを食べるのと比べても効率は悪くないし、より大きなリスクやインパクトを自然に与えるとも思えない。ただし、どこかの旅行社が手配した外部のガイドやパゴダの参拝者が保護区内で魚を捕ったり枝を刈り払ったりしたら、厳密には、それは違法となる。前政権下までは、軍関係の許可さえ取ってれば何でもできるしどこへも行ける、みたいな風潮があったが、政権の替わった今こそ、管轄の機関にはどうか敬意を払ってほしい。保護区に入るなら森林局、伐採搬出を見たけりゃ木材公社、沖に出るには水産局、みたいな具合に。
 捕れたての魚を揚げる
Frying fresh wild fish

 AKの魅力は、大型の動物が比較的多くいることで、これまでの訪問で、ヒョウ、カニクイマングース、マレージャコウネコ、アジアゾウ、サンバー、ホエジカ、イノシシ、ファイールリーフモンキー、アカゲザル、クロオオリスなどの獣が目視できた。今回は、ゾウに次ぐ森の巨獣である二種の野牛、ガウアとバンテンのどちらかでも見られたらと願って人けのない山河を巡ったのだが、足跡すら見つからず、以前ほど気配を感じられなかった。一つ気になる要因がある。周辺の農民が、耕うん作業のない期間、家畜の水牛を放したままにしているのだ。放牧はミャンマー伝統の優れた知恵ではあるが、自然保護地域に放すと確実に生態系を乱し、水牛なら、同じウシ科であるガウアやバンテンを餌の競合により圧迫する。保護官の数も以前より減っており、周辺住民のコントロールはますます難しくなっている。
キュウカンチョウ
Hill Myna (Gracula religiosa), Mar. ’16

私が繰り返しここを訪ねていたのには、もう一つ大きな理由があった。それは、一生のうちに叶えたい夢、野生のトラを見たい撮りたいということである。動物保護の先進国インドに行けば、さほど苦もなく見えるだろうが、ミャンマーの中でトラを見るんだと、だんだん意地になっていた。そこで、最も可能性が高いと思われたAKに狙いを絞っていたのだが、雨季の長期滞在でヒョウに会った時、私は、ここのトラは絶滅していると悟った。森林局動物公園部前部長のイェトゥッ氏がAKの管理長だった頃、私に言った。「トラは長い旅に出てるんだよ。保護が行き届き安心して暮らせるようになったら彼らは帰ってくるよ」。泣かせてくれるじゃないか。事実、チンドウィン流域の別の地域では無人カメラにトラは写っており、私も足跡までは見つけた。それらの生息地とAKを結ぶ森の回廊が充分に成熟し、保護動物は狩らないというモラルが定着したなら、動物たちが伸び伸びと行き交い分布を広げていくというシナリオは、決して夢物語ではないだろう。
ミカドバト
Green Imperial Pigeon (Ducula aenea), Mar. ’16

今回は、ジャコウネコ、リーフモンキー、オオサイチョウや野生のイチジク類に集まる野鳥たちなどを観察できたが、ほんの一週間の小旅行で大きな成果は得られないだろうことも覚悟はしていた。希望の光は、公園の北西境界付近の岩の洞窟でトラの母子を見たという噂があったことだ。私の命が尽きるのが先か、トラが堂々と人前に現れるようになるのが先か、この国の未来、環境行政に賭けてみたい。
オオサイチョウ
Great Hornbill (Buceros bicornis), Mar. ’16

2 件のコメント:

  1. 体調も良くなったと聞いてとても安心しました。
    一ミャンマー人そして一動物好きとして毎度の投稿を感謝と楽しみでいつも拝見させていただいております。これからも応援しております。お大事に

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    1. Hein Nyoさん
      お便り、ありがとうございます。
      しばらく書くことをサボっていたのですが、寄稿の依頼があったことで、久しぶりに長めの文章を書くスイッチが入りました。月一で数編続きますので、また、よろしくお願いします。

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