A largest class Saltwater Crocodile (Crocodylus porosus) in Meinmahla Island named “Great White Snout”, Feb. ’16
「八百万(やおよろず)の神の存在は日本固有の宗教観」と、どこかの権威ある先生やメディアが述べているのを見聞したことがあるが、信心の足りない私めには、そうは思えない。以前、地元紙への寄稿文「隣の神様たち(ブログにて転載中)」でも触れたが、ミャンマーのほとんどの人が信じているナッは、まさに日本で言う八百万の神に近い存在ではないかと思っている。よく「ナッ神」と日本語で表わされるが、外国語に堪能なこちらの友人らは、Godや神とは呼んでくれるなと言う。事実、同じ敷地内にナッを祀る祠と仏壇を別々に置く場合、祠の位置のほうを必ず低くする。ミャンマーの仏壇は、お釈迦様を祀るもので、そこに先祖はいない。一方、日本の自宅の仏壇には、もちろん先に逝った家族の位牌を安置しているのだが、一段高い奥には、お釈迦様の木彫りの像も祀っている。それでも日本の家屋では、神棚はさらに高い位置に納めているはずだ。これらのことから、ナッを表す日本語として神を避けるとしたら、Spirit、精霊という言葉が一番しっくり来るように感じる。他の国では、精霊を願かけの対象として拝むこともあるようだが、ミャンマーでは、そこまで積極的にすがる存在ではなさそうだ。その対象は、飽くまでお釈迦様のほうなのだろう。ただし、精霊を怒らせると災いをもたらされるので、無礼がないよう日頃から丁寧に崇めておく。まさに、触らぬ神…いや、精霊に祟りなし、みたいな存在で、災いがないようさらに一歩踏み込んで奉っておきましょう、といった感覚かもしれない。
前回ご紹介したアラウンドーカタパの森でキャンプをしていた時のこと。竹の骨組にビニールシートを被せた簡易テントで床に就いていたところ、遠くからゴーッと唸るような低い音がし、だんだん大きくなってきた。嵐の接近だということはすぐに分かった。雨を伴うかどうかは分からないが、突風が吹くのは間違いない。保護官の二人は、シートを留めている竹製のヒモを急いで締めなおしたり、折れて飛ばされるかもしれない周りの枯れ枝を切り落としたりしはじめ、もう一人は、テントの背後にある大木の前に座り、ロウソクを立てて何かを唱え始めた。それは当然すべき役割分担で、嵐が鎮まるよう土着のナッに祈りを捧げていたのだ。雨季間近の4月下旬のことだった。また、使役ゾウが働くヤカイン山系の集落でのこと。就労前の子ゾウが体調を壊し、何を食べてもすぐに吐き戻すようになり、いよいよ瀕死の状態になってしまった。ゾウ使いの親方は、急いで新しい祠を作るよう命じた。彼らが崇めるのは、森を司るナッとゾウを司るナッだ。ゾウ専門の獣医師も加わり、治療と祠作りと祈願を平行して進めたが、結局、子ゾウは助からなかった。解剖すると、喉の奥に拳より大きい石のようなものが詰まっていた。それはカチンカチンになった植物の繊維の塊で、時間をかけて徐々に溜まっていったようだった。その子ゾウは、植生の違う他の地域から移ってきた個体だったため、餌に向く植物をうまく嗅ぎ分けられなかったのではないかと私は推測したが、ゾウ使いたちは、日頃のナッへの敬いが足りなかったのも原因の一つと反省しているようだった。
こんな感じで、全国津津浦浦、辻のそこかしこにも土着のナッはいて、それがいかに生活に密着しているか、私も度々実感させられるが、中でも、ほとんどの国民が知っているであろう全国区のナッが37体いる。その中に、楽器を携えているナッが一体だけおり、名前をウーシンジーと言う。元は竪琴のうまい平民だったが、船で訪れたチュンニョージーというエヤワディーデルタの一角の島で土着のナッに魅入られ、その南にあるメインマラー島に幽閉されて、そこで人間からナッに変わったとされている。ぱっと見、と言っても、人間が想像して創造した出で立ちなのだが、いかにも音楽とか芸能とかを司る精霊のよう、と思いきや、手にした竪琴はお役目とは関係なく、汽水域を司る精霊なのだそうだ。汽水とは、海水と真水の混じっている水のことなので、つまり、下は海岸線に接する河口から、上は河川を遡って満潮時に海水が到達する最も先までの担当(?)となる。そんなの、ごくごく狭い範囲じゃないのと島国感覚で思ってしまいそうだが、大陸の大河となると、とてつもないことになる。最大のエヤワディーデルタなどは、もう関東とか四国とかと比べてもいいレベルの広大さで、その水路の隅々にまで海水は入り込んでくるはずなのである。
Cruising a channel in Meinmahla Is., Feb. ’16
ウーシンジーがナッとして誕生した島は、まさに汽水域の真っただ中にあり、現在、メインマラー島野生生物保護区(Meinmahla Kyun Wildlife Sanctuary)として保全され、アセアン版自然遺産、ASEAN Heritage Parkの一つにも指定されている。デルタで呼ぶ島とは、基岩が隆起したような海洋の島とは、かなり様子が違う。元は海だったところに次々に上流から流れ着く土砂が溜まって徐々に陸地化していったものがデルタ(三角州)だが、川の水は止まることがなく、デルタの中を迷いながら分かれながら海にまで到る。その分流に分断され他の土地と切り離された中洲の一つ一つをチュン(島)と呼んでいるのだ。なので小高い丘などはなく、ただただ平らな陸地である。その中で、メインマラーはメジャーな中洲の一つで、ヤンゴンから車なら4時間ほどのデルタの町ボーガレーから、さらに船で数時間下ったところにあり、地図で見るとミャンマー製の草履のような形をしている。この草履島、面積は136.7平方キロで、伊豆大島の1.5倍ぐらいある。岩盤もないので、島内にも水路が網の目のように入り組んでいて、島の西岸から小舟で水路に入り込み東岸へ抜けたりすることもできる。島を極薄の霜降りステーキ肉に例えたなら、全体に入っている白いサシが水路で、赤身の部分が陸地と思ってもらえばちょうどいい。そして、その陸地は、ほとんどが植物で覆われている。
Mangrove at higher tide, Feb. ’16
熱帯、亜熱帯の汽水域に生育する森のことをマングローブと呼ぶ。潮が満ちると森の床は水没して隠れ、引いてくると次第に床が現れる。これを一日2サイクル繰り返すというわけで、このような過酷な環境に耐えられる植物は限られ、陸地の森に比べると種類ははるかに少ないが、密生度や木の大きさでは何ら遜色はない。大潮でも潮が届かなくなってしまった陸地にもマングローブの植物は残っており、次第に純粋な陸地の植物種が混じってくるようになる。マングローブを構成する樹木には、比重が1を超えるような重厚なものもあり、炭の原料としても申し分ない。エヤワディーデルタのマングローブが壊滅状態になったのも、ヤンゴンなどに出す炭用に伐採したのが主な原因だった。1993年にメインマラーが保護区に指定された時も、既に伐採は始まっていたが、それでもここが最後まで後回しになっていたのは、ウーシンジーへの畏敬の念があったからではないかと思われる。マングローブは「生命の揺りかご」とも例えられ、そこに生きる動物は、甲殻類から魚類、哺乳類まで多種多様。その豊かなマングローブ生態系の頂点に立つ動物が、やはりウーシンジーに縁がある。人間が創り出したウーシンジーの像の両脇には、二体の従者が控えている。一つが陸の王者トラで、もう一つが水辺の王者ワニ。そう、メインマラーにはワニがいるのである。
Little Egret (Egretta garzetta) & Great Egret (Ardea alba) on a muddy beach at lower tide, Feb. ’16
かつて、ミャンマーには4種類のワニがいた。決して原始時代の話ではなく、今、地球上に住む現世のワニのうちの4種類がいたのだ。この数なら、隣国のインド、タイを凌ぐワニ王国と言えるが、現実はそうではない。経済の発展が目的の国家や御方にとってはどうでもいいことかもしれないが、ミャンマーの野生生物保護は完全にワンテンポ遅れた。はっきり言って手遅れで、逆立ちしても取り返せないものがいくつもいる。拙著での啓発など、焼け石に届く間もなく消えた水蒸気だった。残念ながら、近代になってミャンマーのワニは次々に消え、現在は1種類しか残っていない。それが世界最大のワニ、イリエワニで、まとまって生息している場所は、このメインマラーだけになってしまったのだ。入江の名の通り、汽水に好んで生息するが、もし、西のベンガル湾側や南東のアンダマン海側で単発的に発見されたとしても、もう、番う相手を見つけて繁殖できる可能性はゼロに近いので、森林局が捕獲して、メインマラーに移住させることにしている。
メインマラーへは、90年代に三度訪ねて以来、しばらくごぶさたしていたのだが、2008年のサイクロン・ナルギスの襲撃以降は再び気になって、毎年のように通うようになった。友だちグループ、旅行業者、テレビカメラマンも招待し、私自身も文章と写真で度々紹介し、特にブログでは、ここのワニのサイズについて話題にしていた。まず保護官たちは、長さ1メートル以上の個体は、島全体で少なくとも50匹以上はいるだろうと推測している。俗に、彼らは若いうちは一年に1フィート(約30センチ)成長すると言われ、目測で3メートルクラスのものまでは結構いる。けれども、我々が大物の目安としてよく使う数字は15フィート(約457センチ)で、ここを超えるものになると、ぐっと数が減ってくる。その中でもとりわけ大きいのが数頭いて、保護官たちは、もしかしたら18フィート(約549センチ)あるかもしれないと推測していた。実は、彼らのサイズについては、数年前に一定の結論が出ているのだが、私は、ワニのことは、しばらく書く気になれずにいた。人にとってもワニにとっても、あまりにも不幸な出来事が続いていたためだ。
A 50cm class baby crocodile, Feb. ’16
超大物の中でも特に私と相性がよく、毎回のように会っていた、通称「顎欠け」という大ワニがいた。我々は、期せずして彼の正確なサイズを知ることとなった。不幸な出来事、それは、人かワニのどちらかが犠牲になる惨劇である。特に繁殖期に当たる暑季の終りから雨季の間は、ワニは行動範囲を広げ、より攻撃的になり、メインマラーから離れた村でも人が襲われることがある。以前はワニの被害が出ると、人々はウーシンジーに対して間違ったことをしてはいなかったかと、まずは省みたようだが、今では報復に出ることも増えてきている。そんな中、顎欠けも、ある事件に巻き込まれ、小舟の大船団に執拗に追跡され取り囲まれ、全身に槍や鎌の打撃を受け続け、無数の傷を負った果てに絶命した。死体は保護官たちに収容され、検体を行うこととなった。実測の結果、死後のやや萎縮した状態で、全長17フィート7インチ(約536センチ)あった。それまでの保護官たちの目測の正確さが証明された形になったが、こんなむなしい身体検査は、彼らも二度と御免だろう。
An Egret beside “Great White Snout” may be about 1m in height, Feb. ’16
メインマラーには、今年も2月と8月に訪ねた。顎欠けなきあと、以前はたまにしか見られなかった大ワニ、通称「鼻白」が度々見られるようになっている。これら超大物数頭に対しては、大きいという意味の言葉「ジー」を後ろに付けて呼ぶこともある。人を呼ぶときにも、同姓同名がいれば年上のほうに付けることがあり、私に対しても「ジャパンジー」とか若い子が気を遣って呼んでくれることもある。たぶん、日本人の大兄、大旦那みたいなニュアンスで、さしずめワニの場合だと「鼻白大将」といったところか。顎欠けが実測できたことで目測の信頼性も高まったが、鼻白も、やはり5メートルは超えているとみられる。顎欠けに比べると、やや細身なので、まだまだ縦に伸びる可能性を感じる。今思えば、度々会えた顎欠けとの相性のよさは、ちょっとのことではジタバタしない王者のゆとりの成せる技だったのかも…。そして今、その地位にいるのが鼻白で、次第に性格が大胆不敵になってきているのかもしれない。
Black-capped Kingfisher (Halcyon pileata), Feb. ’16
Black-shouldered Kite (Elanus caeruleus), Aug. ’16
Crab-eating Monkey (Macaca fascicularis), Feb. ’16
Fishing Cat (Prionailurus viverrinus), Feb. ’16
乾季のメインマラーには、繁殖を終えた鳥が多くやって来る。北国から越冬に来たものも国内の別の場所から広がってきたものも見られ、船上から労せずバードウォッチングを楽しめる。運がよければオオコウモリやカニクイザルなどの獣も見られるが、残念ながら、ウーシンジーのもう一体の従者、トラはいない。けれども2月の訪問では、同じネコ科のスナドリネコが撮影できた。漢字で書くと「漁り猫」、英語でもFishing Catだ。いるのはほぼ分かっていたが、これまで種を断定できる証拠がなく、森林局も待望の写真だった。一方、雨季には、鳥たちの数はぐっと減る。逆に、ヘビは乾季よりもよく見かける。けれども何と言っても雨季の超目玉は、ワニの巣である。これを見るには、船を降りてマングローブの奥地まで歩いていかなければならないので、あまりお勧めはできないが。この8月にも一つの巣を観察したが、毎年、少なくとも3個以上は巣が確認できており、無事にいけば、それぞれ50個以上の卵が孵るので、雨季の終わりには、島のワニの数は一時数百匹にはなっているはずだ。そこから一匹また一匹と他の動物に食われつつ、1メートル以上が50匹強というところに落ち着いていくのだろう。
Park rangers are going into the deep mangrove toward a crocodile nest. Measuring the location and taking a temperature inside the nest, Aug. ’16
このワニを頂点とするマングローブ生態系を残していくためには、まず、町に住む我々は、強大な肉食動物と背中合わせに暮らす人たちの恐怖、試練、悲しみなどを共感しなければならない。その上で、ミャンマーで唯一生き残ったイリエワニとの共存の道を探っていかなければならない。ワニの数が減るに伴って、住民のワニに対する知識も低下しているのかもしれない。ミャンマーには、牛馬からゾウまでも自由に操れる人たちがいる一方で、吠えかかってくる辻犬たちへの対峙の仕方がうまくない人も多いし、田舎の人が毒があると信じている動物の中にも無毒のものが多くいたりもする。確信がなければ君主危うきに近寄らないのが鉄則ではあるものの、相手を知れば必要以上に恐れることはない。森林局も住民への警告は適宜出してはいるが、私は「ワニ被害回避マニュアル」のような小冊子を作り、近隣の村に配布してはどうかと提案している。保護官たちも賛同はしてくれるものの、予算の目処がなく実現はしていない。90年代、顎欠けや鼻白たちの一つ前の世代の、通称「島巡り(周り)」と呼ばれた大ワニがしばしば目撃されていた。いろんな逸話を総合すると、全長9メートルぐらいあったようだ。ここ十年ぐらい目撃情報はないが、多くの人は、島巡りは海に出て精霊ワニなったと信じている。そうなると、人にも変身でき、我々の目にもつかなくなるというわけだ。ミャンマーの単位で頭の長さが3タウン(約137センチ)になると、ワニは精霊になると言われている。もし顎欠けが生きていたなら、どこまで大きくなっていただろうか。二度と動くことのないその頭骨を測ったところ、長さ67センチ幅38センチ、下顎は85センチあった。長らく私を楽しませてくれた顎欠けは、激変の時代の中で、精霊になることなく昇天してしまった。
“Great White Snout” swimming in the rain, Aug. ’16
関連サイト: http://enjoy-yangon.com/ja/featuer/expedition/272-meinmahla-island
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