宮城県の女川町に行ってきました。
これまで、瀬戸内海、宇和海、沖縄、インド洋に大西洋と、各地の海を見てきた私の人生の中でも、半島沿いから望む女川の入り江の風景は、間違いなく一、二を競う美しさでした。風光明媚という言葉がぴったりの、まさに日本の海、といった眺めです。
新緑が萌える山際ではウグイスやホオジロが囀りキジが鳴き、海辺ではウミネコが舞っている。けれども、一たび人々が暮らしていた町場に目を向けると…
人にメッセージを伝える手段として曲がりなりにも写真を使ってきた私は、映像と現実の間にどれほどのギャップがあるのか、十分に推し量れる人間のつもりでいました。
けれども、“壊滅的”と形容される、その瓦礫の山に点々と廃屋が孤立している光景は、これまでに画面から受けていた衝撃よりも何十倍、何百倍と言ってもいい衝撃でした。あの日から二ヶ月を経た今なお、そうなのです。
列車は丘の中腹に打ちつけられたままで、港に面する四、五階建てのビルは、てっぺんまで窓はことごとくぶち抜かれ、屋内のものは、ねじ曲がり砕け散り、めちゃめちゃになって叩き飛ばされている。
はるかに見上げるその高さまで完全に激流に呑み込まれてしまったその時の町の惨状を、嫌でも私の頭が描こうとする…
あの日の夕刻のラジオでは、学者さんが「三階に逃げれば大丈夫ですよ」と、呑気にも聞こえる口調でアドバイスしていた。パニックにさせまいとの気遣いだったのだろうが。
まさにその頃、現場では本当にとんでもないことが起こっていたのでした。亡くなられた方も生き残った方も、現実の地獄の中におられたのです。
復興は、今始まったばかり。命令形でもなければ過去形でもなく、現在進行形の「蘇る被災地」だと感じました。
現段階で「がんばれ」は、被災していない私などが自分自身の内に向かって言うべき言葉であると思います。
そして、被災された方々には、「どうか穏やかな日常でありますように」。
もしかしたら現地の先生方は、子どもたちの被災と復興の経験を学習活動に結び付けようと考えておられるかもしれません。けれども、今ではないような気がします。くれぐれも焦られることなく、長い目で子ども社会の再建に取組んでいただければと願います。
私自身は、ごくごく短い時間でしたが、この度の訪問のお陰で、心痛と現実のギャップを少しずつ埋めさせていただいたような気がします。
奇しくも、前回と前々回の書き込みにも関連しますが、ミャンマーの森人(もりびと)たちと森や岩場や渓流を越えて身に染み付いてきた感覚は、瓦礫の上でも活かせました。
丹野さん、西條さん、野々浜地区のみなさんとアリサちゃん、大変な中なのに、おいしいお菓子や飲み物をありがとうございました。
0 件のコメント:
コメントを投稿