2010年10月30日土曜日

サイクロンの後に‐中編

愛媛新聞「ぐるっと地球そのままクリック!愛媛」'08年8月30日原文追補

雨季をもたらすモンスーンの主体は猛烈な豪雨で、時折強風が吹き抜けるだけだが、今回のサイクロンでは雨を伴わない暴風がいきなり始まったそうだ。ミャンマー最大の都市ヤンゴンでは夜10時過ぎから翌朝9時にかけて吹き荒れ、終盤になって豪雨を伴った。

上陸の前例がないから先人の知恵もなく市民は面食らった。風速20m程度しか吹いたことのない町に50m超の風である。西日本や関東の平野部に30センチの雪が積もるような未知の体験だったに違いない。ライフラインは完全に寸断され、365夜輝き続けたヤンゴンの象徴、シュエダゴンパゴダ(仏塔)のライトアップも、このときばかりは消えた。

道をふさいでいた倒木や電柱をどかせてバスが通れるようになったのが、ほぼ五日後で、水道と電気がほぼ回復するには約二週間を要したが、不幸中の幸いなことに、人々が帰宅した後の夜間の襲来だったため、海から離れたヤンゴンでは犠牲者は、ごく少なかった。

未曾有(みぞう)の事態は、ヤンゴン到達の数時間前、デルタ地帯で起こっていたのである。エヤワディー川のデルタは、上流から流れてきた土がどんどん沖に向かって堆積(たいせき)した新しい陸地だが、その、丘一つない四国ぐらいの広大な低地に、超低気圧と暴風によって盛り上がった海水が一気に押し寄せたのである。

四国の実家にいた私は、サイクロン通過後のミャンマーの衛星写真を見て、背筋が凍りついた。“ない”。県一つ分ぐらいの陸地が一夜にして世界地図から消えている。

被災の数日後、難航する国際支援交渉を尻目に、市民から集まった支援物資を積み込んだ民間のトラックや船は、都市機能が麻痺(まひ)したままのヤンゴンからデルタを目指して次々に出発した。彼らが撮り帰った現地の映像は正視に耐えがたく、被災者の生の証言には胸が詰まって言葉が出ない。

亡くなった人も生き残った人も、想像を超える地獄を味わっていた。暗闇の中、自分の腕の中から激流が我が子を奪い去るのである。同じ地球上に同じ人間として生まれながら、何の因果で、そんな辛い体験をしなければならないのか。運命を恨まずにはいられない。

※ 以下は、サイクロン襲撃から二ヵ月後のヤンゴンでの支援活動の様子である。

被災地に届ける食料を準備する民間支援者たち
文具を準備する民間支援者たち
漁具を準備する政府系団体(水産関係)

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