2010年6月23日水曜日

2002年 北部の旅‐その5.('03年春記す、未発表)

頂上から一つ手前のキャンプ地で水場が確保できなかったことで、我々は登頂を諦めざるを得なかった。最高地のキャンプでは積雪だけが水源だが、冠雪ラインがどこまで下がっているのか予測がつかず、逆に昨夜の大雪でキャンプ地まで辿り着けないほどに積雪している恐れもあった。とにかく水の保障があるのは、さらに一つ下のキャンプ地である。無謀はできない。

私は、日没までに下のキャンプ地まで帰り着くことを条件に、精鋭ガイド二人を伴って登れるところまで登ることにした。第二高地キャンプを発つとすぐ、尾根は一段と痩せ細り、鋸の刃の上を歩くような上り下りの繰り返しとなった。竹や籐の手すりが所々に仮設されてはいたが、湿った地面に足を滑らせると何十メートルも落下するだろう。一時も気の抜けない一歩の積み重ねが続いた。

雪を頂くポンカン・ラズィの峰々(Mt. Hponkan-Razi)

見晴らしのいいコブ状の尾根に飛び出したとき、初めてポンカン・ラズィの峰々が眼前に姿を現した。そこに至るまでの鋸尾根とは対照的に、これなら雪山の経験の浅い登山者でも優しく受け入れてくれるかも、と思わせるようななだらかな山容である。

ひとしきり絶景を堪能した後、時間の許すまで針葉樹林帯を目指して先を急いだが、陽光が輝いていた空にはいつしか薄灰色の雲が流れ込み、大粒の‘みぞれ’が降りだした。針葉樹がちらほら混じる高地に達した頃には、山頂は雲霧に隠れ、凍える足元を見ると広葉樹の落ち葉の上に‘かき氷’のような荒い結晶粒が張り付いていた。風雲急を告げる中、やっと目的の一つが叶えられる。わずかだがミャンマーの天然氷を口に収めることができた私は、小さな満足と大きな悔しさを胸にきびすを返し、二つ下のキャンプ地を目指して慌てず急いで下っていった。

雲霧林帯から針葉樹林帯へ移行している斜面

その日も次の日も尾根上での野営は続いたが、実は、まだ登りの途中だったある夜、私は突然寒気を感じ、吐いて下していた。一晩中震えが止まらなかったが、その日は一気に谷底から千メートル近く標高を上げた日だったので、単に気象の急変と体力の消耗によるものではないかと思っていた。チンドウィン川流域の常緑林地帯を離れて三週間目のことだった。

ごまかしごまかし登って下ってきたが、夜に突然震えがくるという症状は、その後も中三日置いて四日目ごとに規則的に襲ってきた。それが自分にとって三種目のマラリアに罹っていたのだと診断できたのは、日本に帰国してからのことだった。

マラリア熱を仮に抑えられる薬を私は常に携帯してはいるが、もし、ポンカン・ラズィの尾根上で緊急事態が発生しても、プタオの町までは一週間近く歩かなければならない。さらにヤンゴンまでとなると週に数便の飛行機を待つしかなく、下山開始から十日は見なければならないだろう。それでもなお、ミャンマー北部にひしめく雪山の中では、'02年時点で最もアプローチのいい山が、このポンカン・ラズィなのである。ミャンマーのトレッキング事情は、いまだにこんなところだ。

今後、ポンカン・ラズィ登山がますます人気になり、森林・自然保護関連の法律や生態学に疎いガイドに率いられた大勢の登山者が入山するようになると、いったいどうなるのだろうか。ミャンマーではアウトドアショップがあるわけでもなく、町の市場で野菜や乾物を買い集め、鍋釜を担いで登山し、山中では森から薪を集めてきて煮炊きして暖を取る。さらに、簡易テントの骨組みには細い木の幹や竹を組む。少数の野営なら問題ないが、入山者が大挙してひっきりなし訪れるようになると、このスタイルで健全な動植物相を維持することは難しくなってくる。

調理熱源には町から担ぎ上げた木炭を使うとか、暖を取る薪には枯れた幹枝に限って現地採集を認めるとか、野営地に使う骨組みには再生力旺盛な竹のみ伐採を認めるとか、何度も建て直す仮設テントに代わって木造小屋を常設し開放するとか、森林局を中心に一定のルールを作っていく必要があるかもしれない。


ミャンマー北西部から北部に広がる常緑林地帯から高山帯にかけては、ミャンマーの中でも知る人ぞ知る自然の聖域、まさに奥座敷だった。この雄大な空気を多くの人に味わってもらいたいような、手付かずの秘境のままであってほしいような…とにかく、取り返しのつかない事態にだけはならぬよう祈りたい。まずは地元の人たちの望みはどうなのか、訪問者も役人も、目と耳を全開にしておこう。

※ 次回からの投稿では、3年分の旅の模様は一気にすっ飛ばして、2006年から愛媛新聞に不定期に投稿していた記事の原文を、未発表の写真を添えて再録していきます。快諾してくださった愛媛新聞社地方部の皆様、ありがとうございました。

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