最近のコロナの報道で「エビデンスがない」というコメントをよく耳にする。evidenceとは証拠という意味で、わざわざ英語を使う意味は不明だが、政治家は特に、判で押したようにこの言葉を使いたがる。
各国の新規感染者数の推移を見比べてみると、ミャンマーのパターンは特異で、8月下旬から始まった激増が10月に高止まり、それから高水準での横ばいが続いている。もしかしたら、この頭打ちの要因は、検査処理能力の限界ということかもで、実際には感染は広がり続けていて、もし検査数が増えれば数値も上がる、という状況なのかもしれない。
第二波まで、時期も波形も日本と同じように推移していたオーストラリアは、その後は、ほぼ抑え込んでいる。オーストラリアで第二波が起きた時期は南半球の冬だったので無理もなかったかもだが、北半球の夏にも関わらず第二波を許してしまった日本の稀なケースとはたまたま波形が一致してしまったということで、オーストラリアの第二波に当たる流行が、日本ではこの冬の第三波に相当するのかもしれない。
実際、ほとんど収束時期のないアメリカやブラジルなどを除けば、第三波の流行を甘んじて起こしてしまった国はなかなか見当たらず、これほど見事に第一、二、三波と階段状に上昇している国は、私のネット検索では日本以外に見つけられていない。
ヨーロッパの各国では現在の増加が第二波で夏の間は抑えられていたし、山が三つ立った韓国でも、二つ目は第二波と言うべきがどうかぐらいの小山で治まってたし、やはり日本は、他国に先んじて第三波に突入してしまった最初の国のように見える。
夏の第二波が収束に向かっていった際、減少に転じていった原因は何なのかが私には推測できず、対策と結果の因果関係がどうにも理解できなかった。
やはり、ウィルスの増減を支配するのはほとんどが自然条件で、人の対策がどうあろうとも、ウィルスが増えたければ増えるし減りたければ減るし、意志はないものの主導権はウィルス側が握っているのではないか、所詮は人間のコントロールの及ばない存在ではないか、という想いさえしていた。
もしそうだとしたら、どうあがいたところでウィルス増減の推移は地域ごとに独特の波形を示すということになり、この第三波も、第二波のときのようにどこかで頭打ちになって自然と収束に転じるのではないか、というような感覚を、私も含め多くの人たちが持っているかもしれない。
だからと言って、運命をウィルスに委ねて、人は手をこまねいて何もせずに定めを受け入れていればいいのだと言うつもりはない。人間側の三密回避やマスク着用や移動の制限などの行動の変容により、たとえ波形は同じでも、万単位から千、さらに百、十人単位と、山全体の高さを下げられるのは間違いないはずだ。ウィルスの駆逐とか大それた成果は絶望的だが、日々の生活に折り合いをつけつつ、やれることをコツコツと積み重ねて全体数を抑え込んでいくということしか、我々にできることはなさそうだ。
その先の希望として、中国やニュージーランドや3月下旬に私自身の肌で本気度を感じたタイのパターンを見れば、抑え込みの度合いをいったん全滅近くまで下げたなら、本来の潜在的な波形をリセットして、横ばい状態に持っていけるのではないかとも思えてくる。
どこまで抑え込むかに関しては、まずは政府の決断、それに対する国民の合意と覚悟次第ということだろうが、そこでいつも問題になってくるのが、防疫と経済のバランスということだ。どちらかというと政府は、経済を回さなければ国民の暮らしが立ちゆかなくなるというシナリオに持っていきたいようで、あまたの実験結果や説の中から、これはやっても大丈夫という事項に偏って次々と選別しては挙げてくる。
その中で、電車や駅ではクラスターは発生していない、感染しにくい場、みたいなことをよく言われるが、私は、それは間違いだろうと思っている。飛沫を飛ばす人が少なめなのは確かかもしれないが。
流動的なもの、例えば電車ならそのものが移動しているし、駅なら人が移動しているので、複数の感染者の履歴を照合して辿っていっても、電車や駅で接点を見つけることは難しく、そこで感染したということは証明できない、というだけのことではないだろうか。
例えば、患者Aさんは中央線で通勤してて患者Bさんも中央線で通勤してても、同じ何時何分発の何号車に乗り合わせていたという照合までは、とうてい無理。なので、感染源の追跡で電車が犯人として挙がることは、まずはあり得ない、と言うか、追跡不可能なスポットだ、流動的なものは。
やはり正確な履歴の追跡ができるのは、日時と場所が確実に特定できるものだけになってしまうので、自ずと、劇場や飲食店や病院などが、どうしてもクラスターとして挙がってくる、と言うか、挙げることが可能なスポットだ。
そこで、追跡できないと言う代わりに用いる体(てい)のいい言葉が「エビデンスがない」なのだ。
同様に、感染の状況に関してよく使われる言葉に「経路不明」がある。実際、経路不明の患者数のほうが過半数なのだが、その人たちを侵した感染源こそが、乗り物とか駅とか、たまたま立ち寄ったコンビニとか、複数の感染者が同時にいたという証明のできない流動的な物や場所であったのかもしれない。そして、残りの半数に満たない特定できた経路としては、固定的な場に自ずと限られてくる。
なので、Go Toトラベルでの感染はあまり報告されていない、は、甘いのかも、いや、甘いはず。記録がしっかり残る旅館などでは集団感染が証明できたとしても、旅程の中で利用した電車や駅にどれほどのウィルスが滞留していたかは、流動的な物であり場所である限りは証明ができない、というだけのことなのかも。
甘いかどうかを言う以前に、ふつうに言葉を聞いて冷静に判断すれば、「Go Toトラベルが感染の原因となった証拠はない」と言った場合、「Go Toトラベルは感染の原因にはならないという証拠もない」ということになりはしないか。
ここは言葉のトリックで、「◯◯が証明された」が、ほぼ百%なのに対し、「◯◯の証拠はない」は、一瞬肯定的に聞こえて、実はフィフティーフィフティーなのだ。
二者択一で迷った時には、あえて困難なほうを選ぶ、そして、結果はうまくいった、ということもある。けど、それは飽くまで個人の中での出来事であって、他人を巻き込む事案においてのフィフティーフィフティーの大博打は、絶対にやってはいけないと私は思っている。特に教育の現場や政治の世界では。
もう一つ、エビデンスと並んで今年よく耳にした横文字に「バイアス(bias)」がある。先入観とか思い込みというような意味で、この町には大地震は起こらない、洪水にはならない、万が一なったとしても自分は助かる、みたいな、科学的な根拠がないまま漠然と大丈夫だと思い込むことを「正常性バイアス」と言って、防災を啓発する番組などで、今年は度々この言葉が聞かれた。
治療薬のない感染症の蔓延も災害のようなものだが、この「正常性バイアス」にどっぷり浸かって一番抜け出せないでいるのが、政府であり政治家であるように、今はどうしても見えてしまう。自分がやりたがっている政策に合致する報告や意見だけを拾い上げて、エイヤーでやってしまう…
リスクがあるにも関わらず「いけるんじゃないかな」という思い込み、バイアスだけで突き進んでいったのが大日本帝国軍で、その典型の一つ、ミャンマー(旧ビルマ)で決行されたインパール作戦では、軍の上層部は、勝算の分析のないまま進軍命令を出し続け、私の伯父を含む多くの日本兵を殺してしまった。
教育や政治の現場では、証拠がないなら、OKかNGかが証明されるまではいったんストップすべき。証拠がないからGo Toトラベルにゴーサイン!は、国民を駒にして実証実験をやっているようなものではないか?
証拠がないだけであって証明されたわけではないことなのに、あたかも見切っているかのように奨励する…どうなんだろう、その姿勢。本質は、大日本帝国軍の時代となんら変わっていないのかも。一か八かの賭けをやりたいのなら、どうぞ私生活でやってください。
そういう政府の姿勢を大いに後押ししているのが、私はやはり、感染して死ぬ人も仕事を失って死ぬ人もどちらも同じだと言い続けている多くの著名人の意見ではなかろうか思っている。これまでの書き込みでも言ってきたが、災害時においてはトリアージの選別は必須で、持てる対処能力に限界がある以上、救うべき順番は論理的に決めていかなければならない。
東日本大震災に置き換えれば、津波で亡くなるのがウィルス感染による死亡で、避難所で亡くなる災害関連死が、失業などによる自殺だろうと、トリアージの発想によれば私なら考える。
第一次に救命しなければならないのは、相性が悪ければ否応なくウィルスに人生最後のスイッチを押されてしまう感染者であって、紆余曲折を経て自ら最後のスイッチを押してしまう自殺に対しては、まずは感染死を食い止めてから当たる第二次救命の対象とすべきで、病理環境が好転するまではひとまず耐え忍んでいただくしかないのではなかろうか。どちらも同時にやれるような有り余る力が日本にあるというのなら話は別だが。
著名人が、これまた判で押したように、どちらも死は死であって同じだ、同時に救わなければならない、と言えば言うほど、政治家は、その真意を汲み取ろうとはせず、あの人もああ言ってるからと奮い立ち、イケイケドンドンに舵を切りそうな気がするのだ。
言葉でも何でも省略したがるのが現代人の特徴だが、千変万化する現象においても、似て非なるものを一緒くたにしてしまう傾向があるようにも見える。本件での感染死も自殺も、どちらも死は死であって同じものなのだろうか?どちらも新型コロナ蔓延の犠牲者であることには間違いないが。
例えば、シングルマザーという言葉がある。ひと括りに世間ではそう呼ぶが、死別と離婚では、シングルに至る経緯がまるっきり違う。まったく別の出来事だ。それを一緒くたにしてもいいものか。決して、どっちに同情すべきとか言っているのではない。どちらの別離を経た母子も、百組いれば百通りの悲しさも苦悩もあるはずだ。
ただ、成り立ちの違うものを結論だけ見て一つのカテゴリーにまとめてしまうと、物事の本質がぼやけてしまうのではないか、と言いたいのだ。経緯が違えば、その後の対処のしかたも違ってくるはずだから。
同じく人生最後のスイッチに至るまでの経緯がまったく異なる二つの死には、段取りを立ててステップバイステップで対処していくべきだと思うのだが。
ウィルスにボタンを押させないよう第一次の救命をするのが医療で、本人にボタンを押させないよう第二次の救命をするのが政策で、政策は医療の負担を減らしてサポートする立場であるべきなのに、今の政府は、医療の足を引っ張る政策を推し進めているように見えてしまう。
「言うことを聞かないのなら治療しませんよ」とは決して言わない医師や看護師のみなさんは本当にすごい!まさに聖職者。頭が下がります。非力ながら皆様に代わって言わせていただきます。次々に新たな感染者を病院に送り込むかもしれないリスキーな政策を続けるなら、もう治療が追いつかない、もうどうなっても知らないよ、再三キャパオーバーになると訴えているのに、と。
客足が多いとか少ないとか、受業日数が足りるとか足りないとか、医療のバックアップ体制があってこそできる話であって、医療がストップしてしまったなら、そんな次元の話自体できなくなってしまうのだから。
「急がば回れ」「二兎を追う者、一兎も得ず」。先人の残した言葉に、なんら耳を傾けようとはしていない。
救命の段取りに改革をもたらす切り札になりそうなのがワクチンと専用治療薬だが、いよいよワクチンの投入が秒読み段階に入ってきた。
前便にて、新型コロナはただの風邪だと主張しておられる方々は、ワクチンの接種を辞退されるのでしょうかと問うたが、やはり、ワクチンの接種に否定的な人はかなりいるようだ。
否定にもいろいろなレベルがあり、多くの人は、安全性が確認されるまでは接種したくないという期限付きの辞退だ。
対照的に、民主主義の本家、アメリカでは分かりやすい人が多く、ワクチン拒否のデモの報道から伝わってきた限りでは、銃の所持もマスクをするしないも個人の自由であるとの主張の延長のようで、ワクチンを打つか打たないかは自分で決める、国の指示には従わない、というのが拒否の最大の理由のようだった。
この思考が、新型コロナはただの風邪と主張する人たちのスタンダードなのだろう。
副作用が怖いから接種したくない、だったら分かる。けど、ワクチン接種によって集団防疫が確立できる見込みが立ったとなってもなお、打つか打たないかは個人の自由、生きるも死ぬも「自分」の勝手、という主張を通して接種には参加しないというのはどうかと思う。
幸か不幸か、集団接種に参加せずに死ぬのは、おそらくその「自分」ではない。接種拒否をした「自分」のとばっちりを受けて亡くなるとしたら、それは、巡り巡ってどこかの高齢者になるだろう。
前便でも触れたが、マスク着用とかワクチン接種とか、引いては生きるも死ぬも自分の勝手、人の指図は受けない、というポリシーは、自然の摂理に従った「適者生存」という考え方で、現代の社会が自然の定めに抗って目指してきている「弱者共存」を否定するということになり、突き詰めれば、相模原障害者施設殺人事件の犯人の思想と一致するということになるだろう。
一人の青年の深層心理に潜入していって、それが人類の破滅や救済に連動してて、とか、そんなストーリーが最近のアニメなどではよく見られ、トレンドになっているような感もあるが、そんなの、そんなにリアルに見せてくれなくてもいいから。
現実の世界では、そこまで個々の深層心理をえぐらなくとも、性能のいいワクチンや治療薬の普及により、本当に新型コロナもただの風邪になったもんだねと、呉越同舟でみんなが笑い合って振り返れるような時代が早く到来することを願うのみである。とりあえずは、そこから。
新型コロナウィルスで亡くなられたすべての皆様のご冥福をお祈りいたします。
大西信吾
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