2011年6月16日木曜日

捕鯨?反捕鯨? -Whaling, or Anti-whaling?-

進化の度合いとか、知能の高さとか、可愛いとか不細工とか、家畜とか野生とか、そういった基準で命をランク分けすることには、私は反対です。

身分や生い立ちで仕分けることを人間社会に置き換えてみたらどうでしょう。許されることでしょうか。

今、ランク分けしても許していただけるとすれば、それは、絶滅に向かっている度合いと、人類の生存を脅かす度合いぐらいではないでしょうか。それもエゴには違いないのですが。

例えば、何の後ろめたさもなく叩き殺せる蚊にしても、地球上に残り百匹ぐらいになってしまったなら、人類は全力を挙げて保護に努めるかもしれません。

逆に、マラリア原虫を媒介するハマダラ蚊を撲滅寸前まで追い込んだとしたら、何度も奴らに瀕死の目に逢わされてきた原告の私としては、そこでも「同じ地球号の仲間なんだから保護しよう」と言える懐は持てません。

エヤワディー河口から千キロ以上上流に住む最も内陸のカワゴンドウ
Irrawaddy Dolphin (Orcaella brevirostris) in their most inland habitat over 1,000km upper from the mouth of Ayeyarwady River

先月、和歌山県太地町の沿岸捕鯨を巡るドキュメンタリー番組を見ました。

私も子どもの頃には、クジラの肉にはものすごくお世話になり、恩があります。母親は、行商の魚屋さんが売りにくるクジラとメリケン粉で揚げモン(天ぷら)を作ってくれたし、黒くて平べったいマルハの缶詰の甘辛い味は、ノスタルジーと共に今でも覚えています。

けれども今、日本の捕鯨と、食材の限られている極地や大洋に住む少数民族の捕鯨とでは、事情がかなり違います。なぜなら、クジラの肉がなくても、たちまち餓死する人は、飽食日本には、いないはずだからです。

だとしても、今このタイミングで捕鯨を止めることだけは、絶対にすべきではないと思っています。自虐行為です。

すべての欧米人が同じ考えでいるとは限らないし、報道を通して見聞した反捕鯨の意見や行動しか知りませんが、あの程度の認識力や精神性のままにしておいて、日本が捕鯨を止めるということが、どういう意味になってしまうのか…

“これまで捕鯨に従事していたクジラ漁師がやってきたことは間違っていた、だから禁止になるべくして禁止になったのだ”ということになってしまいます。

食べ物をいただくとはどういうことなのか、生きるとはどういうことなのか…

まずは、日本人も欧米人も、そこをよく考えて話し合うことに努めるべきだと思うのです。まだまだ足りていないのではないでしょうか。科学は後回しでいいです。

そして、クジラを捕って食べるということは決して非人道的なことではなく自然の摂理に沿った行為である、ということを全員が共通認識として持つことができたなら、初めてその先に、科学的な選択肢の一つとして捕鯨禁止があってもいいと思うのです。

例えば、“今の日本では食料は十分にあり、どのクジラも減少傾向にあるので、しばらく捕鯨は止めときましょう。けれども極端に数が増えてきたなら、その種の捕鯨は再開しますよ”みたいなケースなどが考えられます。

クジラは少産で妊娠期間も長めなので、爆発的に増えることは想像しがたいですが、常に体温を保たなければならない哺乳類です。その食欲たるや半端ではないでしょう。

8メートルのミンククジラ一頭の食べる量は、8メートルのジンベイザメ十頭が食べる分ぐらいと思ってもいいのではないでしょうか(具体的なデータがあれば知りたいです)。

なのに、クジラだけ優遇して生存させ、他の魚介類ばかり獲っているとどうなるか…数のバランスが崩れて海の生態系が乱れてしまうという事態が起こらないとは限りません。

今のところ、種類によっては捕っても問題ないほどの数がいると言われていますが、そうした実態を知る手段の一つとして「調査捕鯨」があります。そして、そこで捕ったクジラは食肉用に市場に出ています。

このシステム、私は、なんか腑に落ちません。いかにもお役所的な折衷案のようで。

調査研究のために生体が必要なのは分かります。だったら、サンプルとデータを取るだけ取ってもらい、残った死体は海に返したほうがいい。他の魚介類に食べさせたほうが、よっぽどいい。

食肉用のクジラは、食べるための漁業として、太地の漁師さんのように真っ正面から捕鯨し、無駄なく解体して市場に出し、そして感謝していただかなければ、捕ってくれた漁師さんにも犠牲になったクジラに対しても失礼だと思うのです。

エヤワディーデルタのマングローブ地帯を回遊するカワゴンドウ
Irrawaddy Dolphin, swimming around the mangrove area of Ayeyarwady delta

ミャンマーのデルタ地帯で、イルカは食べないのかと漁師に尋ねたことがあります。答えは明快。“魚が十分に獲れて飢えることはないので、わざわざイルカを捕る必要はない”とのことでした。

小規模漁師にとっては、漁具を傷められるリスクを犯してまで小船で立ち向かうほどの値打ちも意味もない、ということでしょう。

中流域の一部の投網漁師は、野生のイルカ(カワゴンドウ)と共同で漁をしています。彼らを傷つけないことを暗黙の約束にして。

その地域では、そうしたほうが争うよりもお互いに得があるということを、たまたま双方が発見したのでしょう。


エヤワディー中流域で共同で漁をするカワゴンドウと漁師
Irrawaddy Dolphin and fishermen who cooperatively do fishing in the middle reaches of Ayeyarwady

我々は神様でも仙人でもありません。植物にしろ動物にしろ、他の命をいただくことによってのみ命を繋ぐことができます。そして、いただく対象となる命は、それぞれの地域の条件によって必然的に選ばれてきたものであって、そこに到った歴史と文化は、決して非難されるべきものではありません。この狭い日本の中ですら、ハチを常食する人もいれば、正視すらできない人もいます。

負い目なく殺せるもの殺せないもの、食べていいものいけないもの、私の中では無意識のうちに、ほぼ定まっています。その基準はどこにあるのか…時々は立ち止まって考えてみたいです。

賢いからこいつは殺さない、こいつは痛さの分からないバカだから殺してもいい、こいつは野生で育ったものだから食べない、こいつは人が育ててやったものだから食う権利がある…人間て、そんなにえらいのかな?


エヤワディー河口沖を泳ぐゴンドウの仲間(推測)
Some Delphininae species, swimming offshore the mouth of Ayeyarwady

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