2010年6月17日木曜日

2002年 北部の旅‐その3.('03年春記す、未発表)

収穫後の田んぼにたたずむ水牛

チンドウィン川と別れたあと、今度はエヤワディー(イラワジ)川本流の上流部を目指すべく、ミャンマー最北の小さな町、プタオに飛んだ。

この町は、やや標高の高い広大な平原の真っただ中にあり、西、北、東の三方は、雪を頂く四、五千メートル級の山々に取り囲まれている。空港に降り立った瞬間から遠くから雪山が見守ってくれているのである。今回は、プタオの北西、インドとの国境にそびえる山、ポンカン・ラズィを目指すことにした。ここも最近、野生生物保護区に指定されている。

平原の外縁である山麓までは、砂利道をジープやトラックで進むことができるが、そこから先、いったん斜面に取りついたならば、残る交通手段は自分の足以外にない。集まったポーターは、保護官がプタオ平原の村から雇った若者たちだった。彼らはこの地域で最も多数派のロワン族だが、平原のロワンよりも山地のロワンのほうが二倍の荷物を運べ、さらに雪山直下に少数住んでいるチベット族なら三倍運ぶと言われている。当然、日当も二倍、三倍となるわけだ。現に、日ごろ斜面を歩いていない我がポーターたちは、登りに差しかかると客人である私からもどんどん遅れていく。もっとも私より二倍近い重量を背負ってくれてはいたのだが。

平原から一山越えると、そこにはまた別の準平原が続いていた。国境の山塊に取りつくまでは、緩やかな起伏に沿って渓流沿いの森を抜け、ロワン族やリースー族の住む小さな集落や開けた田畑を横切りつつ、じりじりと距離を稼いでゆくのである。最近では、ポンカン・ラズィはアプローチのいい雪山として旅行代理店経由の登山者がぼつぼつ訪ねるようになったため、村人も徐々に慣れてきて、交渉次第で民家に泊めてもらうことも、彼らの自給を妨げない範囲で鶏や卵や野菜などを売ってもらうことも可能になってきている。

柿の実のなる山里

竹の幹を平たく伸べた床と壁にカヤぶき屋根でできた民家は、高床式だが部屋の真ん中には囲炉裏が組まれている。かまどを敷く木製の土台を地上から支柱で支えて床と同じ高さに固定しているのである。庭にはサトウキビとバナナとカキが隣り合って植わっていたり、刈り取られたあとの田んぼには遠くの雪山を背景に水牛の群れがくつろいでいたりで、国籍不明のなんとも不思議な空間だ。真っ赤に熟した柔らかなカキは、食べきったあとの口の中にやや‘えぐ味’が残ったものの、甘さは、それまで日本で食べたどんな品種のカキにも負けなかった。

奥地に向かう吊橋

プタオを出て数日後、最後の村をあとにし、やっと山塊への入口である渓谷にたどり着いた。雪山から流れ落ちたばかりのたっぷりの谷川の水は、緑のフィルターを取っ払ったように透き通り、十秒も手を浸けていられないほどキンキンの冷え冷えだった。けど、数日間、汗を流す機会のなかった私は、無謀にも頭の先まで全身を水没させた。ほんの一瞬だったのだが、その夜、全身にはウルシにかぶれたような湿疹が現れ、眠れぬほどのかゆさに襲われた。刺激が強すぎたようだ。

そんな雪解け水が轟々と流れる谷沿いの低い土地では、板根(ばんこん)を張り巡らせた樹高四十メートルを越える大木が林立し、まさに熱帯多雨林をほうふつとさせる森が日の光を遮っている。日本では南西諸島などの南の常緑林で見られる巨大な木性シダ、ヘゴの仲間も、このあたりには多く、ミャンマーでは逆に、北の常緑林を象徴する植物となっている。やはり、植生の分類上は、亜熱帯常緑林(亜熱帯多雨林)であろう。(続く)

籐だけで吊っている橋は100%植物性

1 件のコメント:

  1. ブログを見せてもらっています。
    北部は蒸し暑いジャングルのイメージとは違って澄んだ空気を感じる雄大な山の景色なのですね。このような奥地?の撮影にはご苦労があると思いますが、その写真をこうして私たちが自宅の居間でくつろいで見ることができるなんて、不思議な気がします。
    また、体がかゆくなったりマラリアの熱だったり、やはりいろんなことを乗り越えておられるんですね・・。
    応援しています。        松山のkiyo柑

    返信削除