2011年6月23日木曜日

嗚呼 東松島や -Ah, HIGASHIMATSUSHIMA-

宮城県の東松島市を訪ねました。

先月、女川町を訪ねたときには、人力でできることは次第に屋内での作業に向かいつつあり、野外は、そろそろ重機の独壇場になっていきそうな印象を受けていました。

けれども、今回、改めて思い知らされました。やはり被災地はとてつもなく広く、一見、被害が少ない地域でも、人手も人目も届いていない隅から隅までが、まだまだ至る所に残っているのだということを。

それでも、被災していない者たちが、いろいろな形で今しばらく協力して、ほぼ重機にバトンタッチできるところまで行ったならば、撤去作業は、建設・土木・処理業の応用なので、国内の力で十二分にやっていけるはずです。政府が、はっきりと道筋を示してさえくれれば…

機械ということでは、日本のロボット技術は世界の最先端、防災や災害への対処でも最高水準にある、そんな風に聞かされてきて、私もほぼ信じていました。けれども、所詮は研究室を脱しない平和な国での開発でしかなかったのでしょうか。

いざ事が起きてしまえば、非常事態の現場で使える実践的な機材や技術は、ほとんど海外からの援軍ではないですか。感謝すべきでしょうが、なんか悔しい。

書面上の建て前ではなく、本気で“平和”を立国の基軸にしていたなら、この半世紀、命を守る技術や機材を徹底的に開発する時間は十二分にあったでしょうに…日本は非武装救助国になれる大きなチャンスを自ら放棄し、世界の番犬ならぬ世界の救助犬になり損ねたような気がしてなりません。

「たられば」はさて置き、今は呉越同舟で何色の人も混ざり合って、腕を振るえば振るうほど足を踏ん張れば踏ん張るほど、被災地は、ジリジリと復興に向かって前進できます。

けれども、その最初の一手すら拒む最悪の敵、原発に対しては、私は以前から独特の不気味さを感じていました。いくら安全で壊れないと言われても、その中に、とてつもない殺傷力を持つ物質を閉じ込めていると思うと、やっぱり気持ち悪い。

ハブを入れたガラスケースを枕元に置いて寝ているようなものです。ハブにガラスは壊せなくとも、目覚まし時計の角が当たっただけでも割れてしまうかもしれません。

原爆に打ちのめされた日本の未来を原子力に託すに到った先輩方の心情とは、いったいどのようなものだったのか…私には想像が及びません。

昭和29年公開の映画「ゴジラ」では、原子力は人類の脅威として描かれていますが、手塚先生は、昭和26年に生み出した人類の味方に「アトム(原子)」と名付けています。兄はコバルトで妹はウラン。

アトムは、ずっと日本のロボット開発の象徴のような存在であり続け、私も大好きでしたが、大きくなって名前の意味を知ったとき、その命名には、なんとなく引っかかっていました。

今の状況を見れば、誰でも「反原発」「脱原発」と叫びたくなるのは当然です。けれども、その声が、今一つ説得力に欠けるような印象を受けてしまうのはなぜでしょう…日夜電気のお世話になっているという負い目からでしょうか…

このことについては、次回、もう少し喋らせていただきます。

私が女川と東松島に行ったのは写真家としてではないので、端からカメラは持参していません。悪しからずご了承ください。あまたある報道の画で十分でしょう。私自身は、惨状にも戦場にもレンズを向けられないです。

人間は痛い目に遭わないと本気の行動を起こせない生き物かもしれませんが、教訓と言うには、この度の震災は、あまりにも犠牲が大きすぎました。

反面、怪我の功名と言うのは不謹慎かもしれませんが、この震災が、数え切れない縁を新たに生んでいるのは確かです。太いの細いの、長いの短いの、縁の糸は縦横無尽に繋がり始めています。

被災地で奮闘した者同士が、まさに同志となったり、数ヶ月前なら出会うことなど想像もできなかった南からの訪問者と北の住人が、お互いの方言に戸惑いながらも会話を交わしたり…そんな光景が、日々あちこちで展開しているはずです。

被災地の方々の多くは、すれ違う一瞬でさえも、外来者を見かける度に挨拶をしてくださいます。おそらく何十人何百人に…そのお気遣いに触れていると、なんか、こっちのほうが辛くなってきました。

赤井の高橋さん、冷たい麦茶をありがとうございました。海田(かいだ)地区と横沼地区の皆さん、差し入れありがとうございました。

私は、早く被災地からボランティアの姿が消え、復興の作業が給与を伴う仕事として被災地の皆さんの手に移行してゆくことを望んでいます。

そして、今度はのんびりと、改めて東北を旅してみたいです。そう遠くない将来、嘆きの「あぁ」が、感動の「あぁ」に代わる頃に。

2 件のコメント:

  1. 大西様、こんばんは。
    ボランティアツアーでお世話になりました、西嶋です。
    大西様には特に、重たい作業を黙々とこなされて、本当にお疲れさまでした。このブログなども拝見させていただき、そして思うに、あの時はご自身が、ゾウになった気持ちで作業されてたのかなぁ、と思う事です。

    ところで、「ラジオ深夜便」に、出演されてたのですね、ビックリです。私は深夜便ファンの一人ですが、残念ながら象の話題は記憶にありませんので、聞き逃してるようですが、しかし凄い事です。

    ブログもボチボチ、読まさせて頂いてます。国際救助隊の創設には、お力添え出来ませんで、申し訳ないですが、ゴム草履と歩き方に関しては、私も興味をそそられる部分があり、後ほど同記事のコメント欄に、コメントさせて頂こうと、思います(大した事ではありませんが)。

    ところで、私もブログやサイトを持ってますので、宜しければ、

    ブログ:ヤマドリ日誌 
    サイト:「絵本玩具」研究所 ヤマドリ工房 

    で、検索などして頂ければ、見つかるかと思います。ふざけた記事も多くて、アカデミックな内容もありませんが、ははぁん、こんなヤツだったのかと、思って頂ければ嬉しいです。

    では、今日は挨拶がてら、この辺で、失礼致します。

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  2. ヤマドリさんへ
    東松島では、こちらこそお世話になり、ありがとうございました。
    みなさん、復興の一助となるという大目標は揺るぎなく、それにはひたむきだったんですが、それにしても楽しいこともたくさんでしたね。

    六人部屋での人体と武術の話や、バスの中でのS先輩の広くて浅い(おっと失言)話題の、猫の目のような展開、ほんとおもしろかったです。
    こんな機会でもなければ、絶対にありえない混成チームで、愛媛では半引きこもり状態(?)でいるぼくには、新鮮な五日間でした。

    ブログ、まずはチラッと見させていただきました。
    S先輩とは、サービスエリアのトイレの中まで、鉄人27号と28号の話で漏れ…じゃなくて盛り上がりましたが、ヤマドリさんは、鉄人ならぬ木人だったんですね。

    そして、あれほど的確な作業現場の写真を撮っておられたとは、全然気付きませんでした。
    これは貴重な記録ですね。

    ラジオ深夜便は、まだ日本語モードに完全に切り替わっていない帰国直後の正味70分の生放送だったので大変でしたが、栗田敦子さんは、本当に素敵な方でしたよ。
    最近は、東北行きに合わせて朝方にシフトしたため、なかなか聴けてませんが。
    受信料の未払いの人が多くて、NHKの制作費も潤沢ではないようなので、いつか再放送があるかもしれません。土曜の栗田さんの枠で。

    これからも、日本にいる間は週一ぐらいで書き込むつもりですので、よろしくお願いします。
    爬虫類好きの娘さんにも、よろしくお伝えください。
    たまっているヘビの写真なんかも、いつか公開します。
    大西信吾

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